広島駅前ピストル乱射事件(1952年)

1952年(昭和27年)11月、広島駅前で、ヤクザによるピストル乱射事件があった。1950年代は、第一次広島抗争と呼ばれているが、東映の「仁義なき戦い」が公開されたのが1973年(昭和48年)だから、広島ヤクザ抗争を映画でしか知らない人にとっては生々しいかもしれない。当時の現場では、どのような報道だったのか、抗争の経緯なども交えて紹介してみたい。以下、朝日から引用。


広島駅ピストル乱射
当時の広島駅前の様子


原爆で二十余万の生命を一瞬に奪い、平和都市として再出発した広島が、いま「暴力の恐怖」におののく不安な街と化している。市の中心部に勢力を張る村上組と岡組、二つの土建、テキヤの集団が対立して、凶器をふるい、ピストルを撃ちあっている。このケンカは数年前に始まり、殺したり殺されたり、仕返しに仕返しが続き、血なまぐさい事件を繰り返している。

通行人がピストルの流れ弾で負傷したり、その他の被害も多いが、あとのたたりを恐れて市民は口をつぐんでいる。広島市警特捜本部では、検挙をはじめ、幹部を逮捕したり、逃走中の者を手配したりしているが、まだまだ暴力の根絶には遠いようだ。衆議院法務委員会でも下調査を始め、休会明けには正式にとりあげて「暴力のヒロシマ」を究明する方針だというが、市街戦さながらのピストルの射ち合いにまで発展した暴力団ののさばり方は、いったいどうして生まれたのか。

広島駅付近から広島市東部地区「赤線区域」弥生町一帯にかけて根を張る二つのグループの紛争は、すでに数年、いつ果てるとも知れぬ状態にまで悪化している。紛争は広島市下柳町(現在の薬研掘・銀山町・橋本町)の土建業・岡敏夫と、松原町のテキヤ・村上正明の両者の配下の対立によるもので、終戦以来約30件の傷害事件が発生、昭和27年11月6日、広島駅前のピストル乱射事件を引き起こして以来、ことに激しくなり、この1ヵ月間に16件の刃物、ピストルなどによる殺傷事件を繰り返している。

事件の主なものは、昭和21年12月、村上組の者が岡組の事務所を襲ってピストルを乱射、昭和22年9月、村上組の一人を岡組の者が刺殺、死体を郊外の麦畑に埋めた。昭和23年1月、岡組の者が刺傷され、昭和24年春、岡組は団体等規正令で解散、一時殺し合いは影をひそめた。しかし昭和27年9月、規正令が失効して両組は公然と復活、同月28日夜、岡組の一人が村上組の者に袋だたきにあい、10月、岡組と自称する男が村上組に刺され、つづいて村上組の頭株の者が岡組に射たれて重傷、その2日後、岡組の部下がリンチを受け、10日には岡組の頭株が射たれ、12日、今度は村上組の者が広島駅前でピストルの襲撃を受けた。11月、岡組事務所に村上組の6人が乱入してピストルを乱射、続いて岡組の頭株の入院先で両組が射ち合いを演じ、12月のクリスマスの夜、広島駅前で両組の射ち合いのため、通行人が流れ弾に当って重傷となった。昭和28年1月、両組の者が街頭で遭遇、オート三輪をはさんでピストルの射ち合いをやった。


広島市は呉、岩国両市の駐留軍基地にはさまれ、約五千といわれる「夜の女」の群が呉、広島、岩国の三市に散在している。凶器は彼女たちを通じて朝鮮帰りの兵士から入手するものとみられ、弾丸20発から50発をつけたピストル一丁が新型で八千円から一万円、レンコン型で四千円から五千円で密かに取引されていると当局はみている。

治安当局が最も警戒し、市民が恐れているのは、流れ弾による第三者の被害で、前記クリスマスの夜の犠牲者は弾を背中に受けて2ヵ月の重傷を負った。広島東署は取締りの重点を凶器の押収においているが、押収したのはピストル二丁程度だった。

暴力の背後に市政ボスの介在が一時ウワサされ、昭和27年末、市内に出来た競輪場の警備や利権をめぐって、両組をあやつる利権屋の暗躍がとりざたされたが、事件の本流はやはり暴徒仲間の勢力争いとみる方が強い。

ただし、両組の一味には、警察の厳戒をくぐって相手に脅威を与えるという意味から、ともかく一発、市内でブッ放せば三千円から五千円の賞金がかけられているものともいわれ、その資金の出所に疑惑がもたれているという。

岡組の頭領・岡敏夫は事件の直接触れることを避けて、部下を身辺におかず、単身自宅の二階に昨冬以来、病気療養中だが、相手方の襲撃に備えて巧みに階段の構造を変えているといわれている。

村上組の頭株の一人、二代目・村上三次こと高木達夫は、山口県下の妻の実家で潜伏中との情報で市警特捜班が逮捕した。

もう一人の頭領・村上正明は、神戸を経て四国に逃走中と伝えられる。昨冬以来、一人の死者、五人の負傷者を出し、殺傷容疑者岡組11人、村上組9人となっている。ピストルや刃物を振りまわす両組の青年は30歳以上が大部分で「デイリで他人の世話にならぬ。どこまでも自分たちの手でケリをつける」と豪語、いわゆる「ヤクザ仲間の顔」が抜き差しならぬ状態に追い詰めたものとみられる。


広島市内には連夜、非常警戒が続き、盛り場もさびれ気味。市民の治安当局に対する非難がようやく高まりつつあるが、市公安委員長角氏は、東京で開かれた全国自公連会議に「直接の容疑がない限り、紛争当事者を取締ることが出来ない法の盲点」を問題として提出、市警は市内三署から刑事90人を動員して特捜本部を東署に設け、徹底的検挙に乗り出した。

また、広島県本部も管内の刑事係長会議を招集して協力策を練り、この種事件としては珍しい応援隊20人を市の要請で派遣している。市民の間には「原爆という人命尊厳に対する最大の侮辱を経験した市民が、人命軽視の感覚に慣れて、この事件発生の際、いち早く治安当局を励ますべき世論を沸かせなかった」という反省の声も聞かれる。さらに外国製武器の取締りは、日本側の単独の力では及ばぬ点があり、駐留軍への呉市警の申入れに対する協力を待つほかない困難さがある。

また、昔流の「親分」による完全な統率と組織が、戦後の暴徒仲間に欠けていることも、事件解決を難しくする一因とみられる。

凶器所持を取締る法令が「体刑三年以下罰金五万円以下」という軽さも、法の不備として批判され、団体等規正令にかわるものがないという法の盲点も、市公安委員会は指摘している。

銃砲刀剣類所持等取締法

両組はもともと兄弟分だったが、終戦後の輸送混乱時代に国鉄当局が広島駅付近の警備を岡組に依頼、村上組は当時猛威をふるった第三国人に利用されて岡組にタテをつき、これが宿縁となったといわれ、この種の「町の顔役」に頼らざるを得なかった終戦直後の政治力のブランクが改めて批判されている。
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