終戦間際に中国から逃げ帰った母の話

8月15日は終戦75年目となり、当時の戦争を記憶し、目のあたりにした世代は80歳代を超えている。そして実際に戦争を体験した世代のほとんどは、もうこの世にいない。今さらながら、祖父母らが生きていたとき、もっと戦時中のことを聞いておけば良かったと、少し悔いが残る。


終戦間際に中国から逃げ帰った母
戦争が終わる1945年8月の数年前、祖父(母方。父方は中国から体調不良で帰国したが、間もなく20代で死亡)は自分の子ども(母)を連れて中国に渡った。そんな危ないところに何で子どもを連れて行くのかと疑問に思っていたが、当時、仕事がなかったらしい。そこで祖父は軍の仕事を手伝ったという。

ある日、もうじき戦争が終わり、中国が大混乱になるという情報が祖父の耳に入った。そうなると暴動が起きて中国人に何をされるか分からないから、中国から逃げることになったという。終戦日の数カ月前の事だったという。

祖父らは早速、船で帰国した。

中国のどこの港を出て、日本のどこの港に着いたのか、船の中の様子はどうだったのか、母に聞いてももう覚えていないという。

祖父はもうこの世にはいないから聞きようがない。

帰国した母は、祖父と神奈川に疎開した。祖母(母方)が神奈川の人だったからだ。

広島に留まることも考えたそうだが、祖父の親戚などからは、「おまえらを養う余裕はない」、などと言われたから仕方なく広島を後にしたらしい。

ところがそのころ、関東ではB29が焼夷弾で爆撃していたから、疎開どころではなかったようで、「死ぬと思った」と言っていた。防空壕が近くに作ってあったため、母らはしばらくそこで寝泊まりした。防空壕では天井に蛆虫などが這っていたりで、居心地が悪かったという。

当時のおやつは”ほおずき”だったとか。

いつまでも神奈川の母方に世話になるわけにもいかず、祖父らはそこを出ていった。

そんなことまで体験して生き続けている母だが、もうかなりの年齢。

この話を思い出すとき、戦死した祖父(父方)が生きていたら、疎開先の神奈川から広島に戻らなかったら、さらに、帰国後そのまま広島に疎開していたら、自分の人生はどう変わっていたのか、いろいろ考えさせられるのである。

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