【広島・昭和の事件史~中国新聞社関連】

中国新聞社会部長がやくざに襲われる
昭和24年10月11日、広島市の自称広島観音高校水泳コーチの寺田武実(当時30)が、水泳選手の兄がやくざと関係があるとして検挙されたとの新聞報道に抗議するとして中国新聞本社を訪問、応対に出た芥川寿夫社会部長(当時38)に暴言を吐いた。その後、芥川が会社からの帰途に流川町の紀之国屋食堂に寄ったところ、寺田はなおも付きまといコーヒーを芥川の顔に浴びせて10日間の火傷を負わせて逮捕された。

中国新聞社長宅に銃弾
昭和60年1月27日、広島市中区平野町1丁目の中国新聞社の山本朗社長(当時65)宅2階窓ガラスに25cmの穴が開いており、弾丸1つ分の破片が発見された。午前0時と午前4時50分に山本宅では2回、発砲音のようなものを聞いており、やくざによって銃弾が撃ち込まれたものと思われた。中国新聞では暴力追放キャンペーン(当時)をやっており、1月8日未明には広島市安佐南区の報道部長宅の壁と玄関にコールタールが撒かれる騒ぎがあった。

【広島・昭和の事件史~台風災害・落下崩壊事故関連】

枕崎台風で甚大な被害
昭和20年9月17日、枕崎台風が九州に上陸、西日本を中心に730mm、風速50mを記録して3756人の犠牲者を出す大惨事となった。この枕崎台風では広島県が大水害に襲われ、広島県だけで死者不明2700人、流失や全半壊6000戸、浸水5万戸、田畑の流失は広島だけで4000町歩(3967万m²)とされた。


廿日市市の小学校でプールの床抜ける
昭和58年9月6日、広島県佐伯郡廿日市町宮内の町立宮内小学校のプールに生徒120人が入ろうとしたところ、プールサイドの厚さ7cmの床が縦2.1m、横3.5mにわたり抜けて24人が1.5m下に転落した。この事故で鉄工業者長男の1年生の木下誠一(当時6)が死亡した。

北広島町で米軍が飛行訓練中にミサイル落下
昭和62年4月3日、米軍岩国基地北北東80kmの広島県と島根県の県境の飛行中の訓練から戻る途中、米海兵隊第15海兵航空軍F4Sファントム戦闘機の留め金がはずれ、空体空ミサイルスパローを高度4500mから落とした。5月1日、山県郡大朝町大塚(現北広島町)の畳山東1kmの山中で農業男性(当時48)がミサイルの破片を発見、5月2日に山狩りしたところ、長さ3.6mのミサイルが突き出して刺さっているのが発見された。

【広島・昭和の事件史~脱線・転覆・落下死亡事故関連】

河内町の山陽線で鉄橋転落事故
昭和6年1月12日、山陽線河内-本郷間の河内駅東方、関西の箱根と呼ばれる交通危険地帯の広島県豊田郡河内町の椋梨川鉄橋を下関発1月11日午後9時50分の上り東京行き2、3等急行10列車が通過した際に、機関車が下り線路に横倒しに脱線して3等ボギー客車から転落した。1両目は仰向けに、2両目は逆立ちに、3両目は粉砕、4、5両目は川の中で逆立ちとなり、いずれも3等車だった。6、7両目の3等車は脱線、8両目の食堂車、9両目の2等車、10両目の2等寝台も脱線していたが、11両目の2等寝台車、手荷物車、郵便車は無事だった。現場は雪が降っており、列車には無産党の浅原健三衆院議員が乗っていたが無事だった。乗っていた438人のうち7人が死亡、103人が負傷した。犠牲者には佐賀県東松浦郡有浦村長で佐賀県議の青木東太郎も含まれていた。スピードの出しすぎが
事故の原因だったという。

音戸町沖で客船が沈没し30人死亡
昭和7年9月13日、広島県安芸郡音戸町の音戸港を出港した第5柏島丸は呉海軍工廠へと向かう途中の警固屋町沖100mで後続の新栄丸が追い越そうと接近したために横波を受けて左に傾き、定員26人の4倍を超す乗客は右舷へと殺到、そのまま船は沈没して30人が死亡した。第5柏島丸は博愛丸の修理中の代わりの船として運航していた。なお業務上過失傷害致死、船舶覆没罪に問われた船長(当時39)は昭和8年2月21日、大審院で罰金300円となっている。この沈没事故は事故そのものよりも裁判の途中における刑法上の期待可能性理論の論議で戦前は法曹界に広く知られた。

神石帝釈峡神龍湖で卒業旅行の船が転覆し14人死亡
昭和9年3月24日、広島県の備北にある神石郡永渡村の帝釈峡の神龍湖で、比婆郡田森村の粟田尋常高等小の尋常科6年と高等科2年、公民科の男女生徒43人と引率の男女教師が乗っていた犬瀬遊覧船が浸水して転覆、生徒12人と教師2人が死亡した。一行は卒業を前に修学旅行に来ていた。

尾道沖で汽船が沈没し11人死亡
昭和10年1月21日、広島県の尾道を出て豊田郡豊浜村豊島へ向かう発動汽船大崎丸が、午後4時、豊田郡東野村の生野島沖1000mで暴風雨で沈没、30人以上が乗っていたうち11人が死亡した。


宇品沖峠島で舟が沈没
昭和13年1月2日、江田島汽船の宇品-江田島航路みどり丸が年始帰りの客60人近くを乗せて広島県の宇品から江田島へ向かう途中、宇品沖峠島で沈没した。正確な乗客総数は不明だったが、救助されながら死亡した者と漂着死体の合計は32人であった。

呉の長浜港で艀から19人が転落死
昭和18年11月20日、広島県呉市長浜港に寄港中の今治発宇品行きの定期船、広島港湾汽船の公安丸から70人が下船して広長舎の艀2隻にそれぞれ35人ずつ乗り込んで桟橋へと向かったところ、うち1つの艀が浸水したため乗っていた客が次々に海に転落して19人が死亡した。

尾道鉄道が転覆し37人死亡
昭和21年8月13日、尾道鉄道市村行き電車が広島県御調郡木ノ庄村の石畦-畑間で石畦駅を出てすぐに脱線転覆、37人が死亡した。

因島御調郡重井村西港で愛媛汽船が転覆し36人死亡
昭和22年12月29日、広島市尾道市中央波止場を出発した愛媛汽船の今治行き貨客船福盛丸が125人の客を乗せて午後1時15分、広島の因島の御調郡重井村西港に入ったが、客が片側に押し寄せて強風も吹いたために転覆、36人が死亡した。

安芸太田町の三段峡で桟道崩れ高校生7人死亡
昭和27年11月2日、広島県山県郡戸河内村の三段峡で広島皆実高造船科3年の23人と教師7人が夫婦渕近くにあるコンクリートの桟道で記念写真を撮影中、桟道が崩れて生徒7人が死亡した。

安佐北区飯室でバス転落10人死亡
昭和28年8月14日、広島県安佐郡飯室村幕ノ内峠下り坂七曲カーブで広島電鉄の大型バス八丁堀発三段峡行きが35m下に転落、10人が即死した。バスには十数人が乗っていたが、現場は車の転落事故が多く有名な場所でカーブを切りそこねて転落したという。

三原市佐木島向田野浦沖で第5北川丸が沈没し113人死亡
昭和32年4月12日、広島県三原市に属する瀬戸内海の佐木島向田野浦沖の寅丸礁付近で芸備商船の定期客船第5北川丸が向田野浦から尾道へ向かう途中に沈没、定員77人のところを200人以上が乗っており113人が犠牲となった。この中には岡山県総社市の町内会の春の旅行中だった56人、都窪郡早島町共販組合の40人、同じく岡山県の笠岡税務署員20人などの団体客が含まれていた。第5北川丸は大正13年建造の古い木造船で、瀬戸田港を超満員で出発した数分後には寅丸礁に船尾をぶつけてそのまま惰性で乗り上げてしまい、右に傾いてわずか3分で沈没した。船長は切符の整理中で舵は見習い船員(当時16)がとっていた。岩礁に気づいた船長が急いで舵を奪ったものの間に合わなかったという。なお船長は助かったものの見習い船員は行方不明なので詳細は不明だった。船に救命胴衣が39個しかなかった事も被害を大きくした。この瀬戸田航路は西の日光と呼ばれる耕三寺への参拝ルートで、客を積めるだけ積んだり、航海中は船長ではなくて無資格の乗組員が舵をとる事が多かった。死体は佐木公民館などに収容された。4月15日には船体が引き揚げられ、中から老人ばかり14人の死体が発見された。船会社と船長の過失は免れない事故であった。

福山港でタグボート沈没10人死亡
昭和38年7月27日、広島県福山市新涯町の福山港で日本鋼管建設の埋立て現場へと向かう下請けの水野組の人夫57人と乗員2人を乗せたタグボート第13湊川丸が重みで傾いて沈没し、10人が死亡した。定員の5倍を乗せた事が原因だった。沈没したのは港から400m沖で、水深8m、対岸まで50mの場所だった。

【広島・昭和の事件史~砲弾・魚雷爆発事故関連】

北広島町の発電所工事で爆発し28人死亡
昭和9年8月4日、広島県山県郡中野村王泊(当時)の広島電気下山発電所の大堰堤工事場第2採石場で、ダイナマイトが爆発して作業員28人が谷に墜落し、うち日本人11人と朝鮮人14人が死亡した。

呉で魚雷解体中に爆発し8人爆死
昭和25年5月6日、広島県安芸郡下蒲刈島村下島区の男性(49)ら8人が倉橋島村の亀ヶ首海岸で不発魚雷3本を潜水して引き上げて解体中、うち1本が爆発して8人全員が爆死した。

廿日市市の海面で機雷が爆発し46人死亡
昭和25年7月27日、広島県佐伯郡東能美島南端から西方1kmの長島の北寄りの海面で大型磁気機雷が爆発して漁船4隻が大破、2隻が小破し、46人が死亡した。

江田島で砲弾が爆発し7人爆死
昭和26年4月2日、広島県佐伯郡三高村の大迫海岸近くで海底から砲弾や50kg爆弾を引き揚げて火薬を抜き取る作業をしていたところ、砲弾が爆発して7人が爆死し、民家2軒が全壊した。

呉で魚雷解体中爆発し5人爆死
昭和26年7月25日、広島県安芸郡倉橋村鹿島の室尾ノ浦海岸で5人が魚雷の解体作業中に爆発、跡形もなく爆死した。300m離れた民家16軒の窓ガラスも割れた。 

呉で魚雷解体中爆発し7人死亡
昭和27年9月3日、広島県呉市警固屋通り8丁目の海岸で前日夜に5、6人で佐伯郡飛渡瀬村の海岸から密引き揚げしてきた旧海軍の四一魚雷を男性4人が解体中に突然、爆発して全員爆死した。さらに100m離れた電柱で工事作業をしていた中国電力社員(当時20)も墜落死、現場から5mの家にいた母親(当時24)と男児(当時2)も死亡して計7人が犠牲となり、周辺の13戸は全壊した。

呉の南海岸で砲弾を解体中爆発し6人死亡
昭和31年5月22日、広島県安芸郡倉橋町横島の南海岸で、倉橋町本浦の20代の漁師5人と50代の漁師1人で砲弾を解体中に爆発して全員即死した。この砲弾は英豪軍が愛媛県温泉郡津和地島沖に投棄した25cm砲弾で、6人は密引き揚げをしていたもの。津和地島沖は砲弾密引き揚げの漁船が広島県、山口県、愛媛県から200隻集まり、昭和31年だけでもこの事故までに2人も爆死していた。

【広島・昭和の事件史~火災死亡事故関連】

広島では、昭和時代にいったいどんな事件があったのだろうか。すでに他のサイトでも見ることができるが、改めてここで事件種別にまとめてみた。「広島昭和の事件史」の記事内容については全て他サイトからの転載である。


呉の商店火災で11人死亡
昭和9年9月3日、広島県呉市松本町の衆楽市場にある小間物商の井上方から出火して延焼、8戸を全焼して午前3時30分に鎮火し、火元の井上方で井上を含む計11人が死亡した。

西白島町の精神病者収容施設で火災23人死亡
昭和12年7月6日、広島市西白島町の私立半田救護所の精神病者監置室から出火、木造平屋3棟を全焼し、午前2時36分に鎮火した。監置室は26室あったが、監置室と廊下の2重施錠となっていたため患者は逃げられず、23人いたうちの男性18人と女性4人の計22人が焼死し、1人が不明となった。監置室の患者と違って避難が自由にできた行路病者や未監置の精神病者は27人いたが、うち2人が不明となった。

呉の広島医大で火災
昭和22年12月19日、広島県呉市阿賀町の県立広島医大生化学薬理教室天井から出火、炊事場1棟と寄宿舎1棟以外の基礎教室1棟、伝染病室1棟、本館1棟を全焼した。

江波の火薬庫爆発で114人負傷
昭和34年6月8日、広島市江波本町二本松の皿山の中腹にある鉄砲火薬商の渡辺が所有する火薬庫4つのうち2つが爆発して直径30m、深さ10mの穴が開いた。22.5kg入りダイナマイト35箱の爆発により噴煙は50m上がり、4km先まで震動が伝わった。10m下の民家が全壊したほか、半径200mで60戸が半壊、114人が負傷した。爆発した火薬庫は旧陸軍火薬庫を払い下げられたものだった。

豊栄中学校が焼ける・民家に類焼
昭和36年3月12日、午前0時50分頃、広島県賀茂郡豊栄町の町立豊栄中学校(生徒599人)の新校舎西側教室付近から火が出て、木造二階建て同校舎1棟・12教室1210平方メートルと、同校舎裏側の瓦葺平屋建宿直室および給食室各1棟計102平方メートルを全焼。さらに7メートル離れた校舎玄関前の畳製造工場に延焼し、同工場と住宅など計214平方メートルを全焼。同2時頃鎮火した。

福山市の旅館火災で5人死亡
昭和38年8月8日、広島県福山市鞆町仙酔島の錦水別館の2階客室から出火し、西棟木造3階建て2300m²を全焼した。さらに鉄筋3階建て1300m²の内部も半焼して午前6時に鎮火した。この火災で宿泊していた61人のうち5人が焼死、また負傷者には慶応大教授の池田弥三郎(当時48)もいた。

基町原爆スラムで大火災
昭和42年7月27日、広島市基町7区の原爆スラムにある太田川沿いの田中アパート南側から出火、相生橋東岸から三篠橋まで太田川を1.8km堤防沿いに不法占拠していた原爆スラム3141戸3453世帯のうち171世帯562人が焼け出されて1人が死亡した。この原爆スラムには実際の被爆者は950戸1093世帯住んでいた。原爆症は遺伝するという根も葉もないデマから広島では被爆者差別は半ば公然の事実であったがタブー視され、原爆スラムが文学、映像作品でおおっぴらに登場するのは昭和を通じて任侠実録映画「仁義なき戦い」くらいという状態だった。

呉の山火事で18人死亡
昭和46年4月27日、広島県呉市広町町田の大張矢山中腹の道路工事現場近くの雑木林から出火、山のほとんどを焼き尽くして4月28日午前11時10分に迎え火作戦と雨でようやく鎮火した。作業員の女性(当時60)が昼飯を食べる際にお湯を沸かしたたき火が風で枯れ枝に飛び火したのが山火事の原因だった。消火には呉市消防局、地元消防団、海上自衛隊呉地方総監部、陸上自衛隊13師団の620人が参加したが、午後2時45分、呉市東消防署東第1小隊員のベテランの17人が灰ヶ峰東部の稜線下の高さ300m、山深い谷底で北のヒノキ林への延焼を食い止めようとしていたところを、北風から東風に変わった谷間から頂上へ吹き上げる形になった風が炎も吹き上げ、それに巻き込まれて焼死する事件があった。頂上までの400mを上る時間もなく、松林の焼失はわずか2、3分の出来事だったという。午後3時49分、死体が発見され、現場での17人の焼死が確認された。この火災での犠牲者は後に18人となっている。

呉のタンカー火災で6人死亡
昭和57年9月11日、広島県呉市昭和町の石川島播磨重工呉第1工場第4ドックでシンガポール船籍のシーガル・マリントランスポート・コーポレーションの石油タンカー、ジュディス・プロスペリティ号の中央付近3番タンクから出火、廃油に燃え広がり、作業していた43人のうちタンク近くに15人がいたがそのうち6人が閉じ込められて犠牲となった。

尾道市の精神病院火災で6人死亡
昭和59年2月19日、広島県尾道市栗原東の青山病院第5病棟から出火して女性患者3人、男性患者2人、看護婦1人が死亡、男性患者の煙草の火の不始末による火災だった。青山病院は精神病院で木造モルタル平屋建、第5病棟7号室から煙が出ているのが見つかり、192m²が全焼した。死者は6、7、14号室で見つかり、3号室では看護婦(当時61)が女性患者(当時86)を抱いたまま焼死していた。

安佐北区の民家火災で6人焼死
昭和61年11月27日、広島市安佐北区安佐町飯室の国道191号を北へ30m入った会社員の自宅で風呂の火の不始末から出火、木造2階建て190m²を全焼した。この火災で家族6人が焼死した。

廿日市市の高速道路トンネル内追突火災で5人死亡
昭和63年7月15日、広島県佐伯郡吉和村の中国自動車道上りの境トンネル内でクレーン車がスリップして道を塞ぎ、そこへ後続の9台が次々に追突、先頭近くの車から出火して11台が炎上して男性3人、女性2人が死亡した。火災は3時間後に下火となった。7月20日、事故に巻き込まれて不明となっていた男性(当時47)が近くの山林で首吊り自殺をしているのを発見された。事故の原因を起こしたと思って、事故の直後に自殺したものと思われた。

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