日本の原爆開発と広島原爆投下を振り返る。

日本は、太平洋戦争末期に「原爆製造計画」を強力に推し進めていた。アメリカは、このことを深刻に受け止めていたという。

原爆9


連合艦隊司令長官の山本五十六は、「もっと画期的な兵器が必要だ」と考えており、「科学の力によって国防力を増強し、日本国軍の進展を期さなければならない」と。




原爆13


仁科博士は、ウランを濃縮すれば原子爆弾の製造は可能であると示唆し、東條英機総理は、「原子爆弾によって今次戦争の死命が制される」としている。




原爆19



科学者たちも、画期的な兵器を作ることが命題であったし、陸軍からは、一日も早く原爆を作ってほしいと要請があった。なんとか日本が勝たなければならないからと。





しかし、日本とアメリカでは、この原爆開発に取り組む姿勢が、天と地ほどの差があった。
研究スタッフは日本の20数名に対して、アメリカのマンハッタン計画では、12万5千人。
開発費は日本の300万円弱に対してアメリカは20億ドル。
致命的なのは、日本は資源がなく、ウランを手に入れることが難しかった。

当時の日本の研究者たちは、アメリカが原爆を作れると思っていなかったし、日本もできるとは思っていなかったようだ。

もし、日本が先に原爆を完成させていたならば、今の世の中はどう塗り替えられたのだろうか。現実には日本はウランを調達することが難しかったし、ウラン濃縮技術も確立できず、核開発競争はアメリカに大きく先を越されることになったのだから、このタラレバ妄想は考えるだけ無駄なのかもしれない。

原爆投下候補地は、広島、京都、新潟、小倉があったが、原爆投下の威力を調査するにあたり、広島は軍港都市で
あり、まだ空襲を受けておらず、街の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していた。

日本は、この原子爆弾による核攻撃を回避するチャンスはあったのだが、当時の日本軍としては突き付けられた降伏条件の要求を呑める状況ではなかった。無条件降伏などあり得なかった。



【広島原爆投下までの原爆(核)開発の主な動き 】

1934年東北帝国大学の彦坂教授が「原子物理学理論」を発表。原子核には巨大なエネルギーが存在し、それが兵器として利用される危険性について指摘。
1938年ドイツ人オットー・ハーンらによる原子核分裂の発見、ナチス・ドイツで実験開始。
1939年 ドイツで核分裂現象が発表される。
1941年4月日本陸軍航空本部は、理化学研究所に原子爆弾の開発を委託。
1941年5月 日本海軍は、京都帝国大学に原子爆弾の開発を依頼。
1941年10月「マンハッタン計画」が始まる。
1941年11月26日  アメリカから「ハルノート」を突き付けられる。
1941年12月8日真珠湾攻撃。
1942年12月 シカゴ大学で世界初の核分裂連鎖反応の制御に成功。日本海軍は、「核物理応用研究委員会」を発足させる。
1943年1月 仁科博士は原爆製造は可能であり、ウラン235を熱拡散法で濃縮するのが最良と示唆。
1944年3月 理化学研究所構内に熱拡散塔が完成、濃縮実験開始。六フッ化ウラン製造成功。アメリカテネシー州では、濃縮ウランの製造、ワシントン州ではプルトニウム生産炉を建設し運転を開始する。
1944年7月 サイパン陥落。
1944年11月  B29爆撃機が日本全土に空襲開始。
1945年2月 ヤルタ会談開催。
1945年3月 東京大空襲。
1945年3月25日 硫黄島の日本軍全滅。
1945年4月1日 アメリカ軍沖縄本島に上陸。
1945年4月7日 戦艦大和撃沈。
1945年4月  第1回標的委員会開催。(ワシントン) 日本では熱拡散塔消失。原爆開発研究は続行不可能となる。
1945年5月8日 ヤルタ協定によってドイツが無条件降伏。
1945年5月 第2回、第3回標的委員会開催。ドイツ潜水艦に搭載していた日本に届くはずのウランが、米軍により拿捕。ドイツの敗戦で入手不可能となる。日本は、わずかに残った濃縮ウランのサンプルをサイクロトロンを使って分離実験を試みるも失敗に終わる。
1945年6月  日本陸軍が原爆開発研究打ち切り。
1945年7月 日本海軍が原爆開発研究打ち切り。
1945年7月16日 ニューメキシコ州で、人類初の核爆発(原爆)実験「トリニティー」が行われる。
1945年7月26日 ポツダム会談の合意に基づいて、ポツダム宣言発表。日本の無条件降伏を要求するが、鈴木貫太郎首相は「黙殺する」と記者会見で発表。新聞紙面でも「笑止、対日降伏条件」、「断固武争完遂に遭進する」と書きたてる。
1945年8月6日 広島原爆投下


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