広島刑務所の実態

広島刑務所は広島市のほぼ中心部に位置しており、刑務所が市街地にあることについて近隣の住民の思いは様々だという。広島刑務所に隣接する町内会の会長は、市街地にある刑務所そのものの存在に疑問を投げかけている。「刑務所は市街地の中になければならないのか。山間部でもいいのではないかという声が出ていた」(町内会会長)一方、正門前に住む町内会の区長は、刑務所は明治時代からあり、自分たちは後から住み着いたので仕方ないという。収容人員で見ると広島刑務所は東京・府中、大阪、名古屋、福岡に次いで国内第5の規模。福岡刑務所は郊外にあるが、残りの4つの刑務所はいずれも市街地にある。刑務所の移転について法務省では受け入れ先の住民の反対などもあり、容易でないという。

今回の脱走事件を受けて去年まで広島刑務所で服役していた2人の元受刑者によると、元受刑者たちは「刑務所内部の管理の実態が甘い」と証言している。「広刑は甘いんですよ。わたしらバカにしとった。なめとったもん」(去年5月に出所した元受刑者)。グラウンドでの運動時間の様子を「オヤジらは何を見よるかいうたらケンカを見よるんですよ。ケンカばっかりやから」と語る。「脱走とか夢にも思うてなかったんやないですか」(去年5月に出所した元受刑者)男性が「オヤジ」と呼ぶのは担当刑務官。再犯の受刑者ばかりの広島刑務所では刑務官と受刑者の間に信頼関係があるという。「オヤジ(刑務官)なんかはあれよ。慣れとるけえ、そんなにビシッと見てないでしょうね。もう信用しとるね。自分らも塀のところまで走って、本当は行っちゃいけんのですよ。塀1メートル以内は近づいちゃいけん。それでもダッシュして走って塀に両手ついたりしよったですよ。それでも大丈夫ですよ」(去年5月に出所した元受刑者)「ここなら逃げられるな思うたね」(去年9月に出所した元受刑者)この男性が広島刑務所を出所したのは去年9月。李受刑者が乗り越えた運動場横の塀のことを鮮明に覚えていた。「ここへ低いところがあろう。2.6メートル?ここなら越えられる。わしでも超えたろう思うたこと何べんでもある」(去年9月に出所した元受刑者)運動時間に監視役の刑務官が受刑者の身の上相談にのることも多かったという。「誰かがオヤジ(刑務官)に向けて相談しよるときには、こっちは見れんわな」(去年9月に出所した元受刑者)李受刑者はこうした刑務官の監視のすきをみて逃走したとみられている。広島刑務所では受刑者の監視体制に問題があったとみて、法務省の担当者による検証チームを設置して調査していく方針。(RCC)


広島刑務所
原爆で建物の大半が全焼した広島刑務所は戦後、建物のレイアウトも変わった

戦前の広島刑務所
戦前の広島刑務所


【広島刑務所 獄中被爆 強制連行中国人証言シリーズより】
トラックで加計署から10人以上の中国人を護送したという。行く先は三川町の裁判所。1945年(昭和20年)7月13日の殺人事件の直後、坪野収容所(山県郡加計町)の警備に派遣された元広島県警察警備隊員、中村誠(当時68)=安佐北区安佐町=の証言。中村らは中国人らの抵抗に備え、拳銃や日本刀で武装。収容所を包囲し始めて数日後、逮捕劇があった。加計署での調べが終わった7月下旬、10人以上の中国人を一件書類とともに広島市三川町の広島地裁検事局に送り届ける。中国人らは1台のトラックの荷台中央に座らされ、シートで覆われて厳重な警備を受けた。徐立伝(当時70)も「トラックの荷台で視界を遮断されて護送された」と記憶する。そして「間もない日、天井が高く、小さな窓のある独房で閃光をみた」と証言する。その日はまず警報が鳴って米の爆撃機が上空を旋回した。その後、別の爆撃機が急降下して何か落としたのを見た瞬間、せん光とごう音に失神した。気が付くと窓ガラスで顔をけが。監房の南側の防空ごうにいったん退避した。5、60人いたという。(1992/中国新聞)
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