【広島・昭和の事件史~殺人・自殺・死体遺棄関連】

広島では、昭和時代にいったいどんな事件があったのだろうか。すでに他のサイトでも見ることができるが、改めてここで事件種別にまとめてみた。「広島昭和の事件史」の記事内容については全て他サイトからの転載である。


山本老事件
昭和3年11月24日、広島県比婆郡下高野山村(現在の庄原市高野町)で、農業の主婦(当時56)が、飯櫃に頭から突っ込んだ状態で死亡しているのを発見された。彼女の主治医は脳溢血による事故死であると診断したが、警察の嘱託医は右手で首を絞めたことによる扼殺と断定。警察は、主婦の家を家督相続していた養子の男性(当時29)を尊属殺人で連行した。当時の捜査機関は2日2晩の拷問を加えた上に被疑者に白紙の供述調書に署名捺印をさせ、起訴した。1930年、広島地方裁判所及び広島控訴院はいずれも無期懲役の判決を言い渡した。1931年には大審院が上告を棄却し、被告人の無期懲役が確定した。

西条町でバラバラ殺人
昭和6年7月21日、広島県賀茂郡下三永村福成寺山中で小学校の終業式を終えて雨の中を帰宅途中の同村に住む杉井敏数(当時8)が開拓業の上高八郎(当時40)に絞殺され、草刈鎌でバラバラにされた。上高は事件より20日近くして逮捕された。上高は妻の父が癩病患者で、雇い入れた朝鮮人から俗信で子供の肉が効くというので杉井の手足を持ち帰って黒焼きにし、柏餅と一緒に届けていた。

大津野村で強盗殺人事件
昭和21年12月23日、広島県深安郡大津野村(現在の福山市大門町)にある岡山県との県境の近い槇ヶ峠の頂上付近で男性2人の惨殺遺体が発見された。2人は胸部や脚を小銃で打ち抜かれ、顔面がめった打ちにされた上に、背負っていたリュックサックも切り裂かれていた。被害者は、広島県内の豊田郡大長村(現在の呉市豊町)の柑橘出荷組合の理事2人(共に当時49歳)で、12月18日に岡山県小田郡笠岡町(現在の笠岡市)に服地の購入を斡旋してやると称する5人組の案内で、服地の代金34万円を持参していたことが判明した。犯人グループと2人は山陽本線笠岡駅の一つ手前の大門駅で下車し、人里はなれた山道で、5人は犯人に及んだという。

金比羅丸事件
昭和21年8月23日、広島県沼隈郡鞆町(現在の福山市鞆町)の沖合いの燧灘で貨物船が炎上しているのが発見された。消防団と警察は漁船などで急行し消火活動を行ったが、貨物船は沈没こそ免れたが全焼した。消火活動の際に同船から甲板員が救助されたが、船長と機関長は射殺されていた。金比羅丸は広島県豊田郡大長村(現在の呉市豊町大長)の個人所有の貨物船で、大長村をミカンと青物商親子の5人で8月21日に出発した。そして翌日に岡山県笠岡町(現在の笠岡市)でミカンと青物商親子をおろして8月23日未明に帰途についたが、その際3人の男に便乗させて欲しいと頼まれ同乗を許した。しかし、午前6時ごろに備後灘で3人組が豹変し、船長と機関長を射殺し、甲板員は船底に逃げ込んで身を隠すことに成功したが、3人は船に放火して貨物船の伝馬船で逃走したという。鞆の浦の仙酔島に金比羅丸の伝馬船が乗り捨てられており、そこには犯人が脱ぎ捨てたワイシャツがあったが、金比羅丸は灰になっており犯人に繋がる証拠が殆どなくなっており、事件は迷宮入りになった。

事件発生から2年が経過した昭和23年11月になって金比羅丸事件の再捜査が大規模に展開された。昭和24年1月になって「大阪市在住の甲が主犯で、共犯は乙と丙である」という投書が捜査本部にあった。そこで大阪にいる甲の身辺調査をしたところ三人にかつて雇用関係があり甲は拳銃二丁持っていた事が判明した。4月に3人を検挙した。事件前の昭和21年3月に、甲は貨物船を購入し米ソ両国に分割占領されている朝鮮半島と密貿易することを計画、乙を船長、丙を炊事係として雇用した。しかし最初の航海で貨物船が故障し売却せざるを得なくなったため、3人は生活に困窮するようになった。

そのため3人は広島県三原市方面で綿布を入手する段取りをつけ、その綿布を大阪の闇ブローカーに売却を仲介する契約をとりつけた。しかし入手先が摘発を受け取引不能になったことから、取引を装ってブローカーから金銭を奪う計画に変更し、同じ広島県の因島にあると船で誘い出して途中で巻き上げる計画をした。そのためブローカーを誘い出す舞台装置として船を捜していたところ、笠岡にいた金比羅丸に目をつけたという。そして船を奪う為に船長と機関長を射殺したが、両人の断末魔の形相に怖気付いたことから、計画遂行を断念し放火して逃亡した。なお一審の広島地方裁判所尾道支部は1951年に甲に死刑、1952年1月に乙に無期懲役、丙に懲役10年を言い渡している。

母妹殺害
昭和21年9月16日、広島県内で無職の邑神一行(当時19)は、母親(当時49)と妹(当時16)を就寝中に棒で殴打して殺害。遺体を井戸の中に遺棄した。邑神は、会社の金を使い込んで解雇され実家に戻った。だが仕事もせず遊んでばかりで、母親等の内職で辛うじて生活している状況だった。そこで、妹から罵倒されて殺害を計画したのだった。一審は無期懲役だったが、二審で死刑判決。最高裁で邑神の上告が棄却され死刑が確定した。

加計町強盗殺人
昭和22年7月、米田実(当時30)と岡崎保雄(当時31)の2人は、広島県山県郡加計町の農家に強盗目的で侵入。家族3人を殺害して金員を奪った。犯行当日、米田は岡崎に借金の催促をしたが、岡崎は米田を騙して強盗の手伝いをさせるため被害者宅に連れて行き犯行におよんだ。昭和37年10月、最高裁は2人の上告を棄却して死刑が確定。ところが、米田は「殺したのは自分ではない」と訴え再審請求をした。一方の岡崎は「米田に手伝わないと殺すと脅して被害者を縛った。実際に自分一人が3人を殺害した。米田は関係ない」と主張したが、結局再審請求は却下された。

両親殺害
昭和23年6月11日、広島県加茂郡の山岡昭二(仮名、当時18)は、自宅で入浴中の母親(当時53)に「よう虐めてくれたのう」と匕首で刺し殺した。更に、父親(当時57)の帰りを待って、玄関で同様に殺害した。山岡は、昭和21年に中学校を卒業して小学校の助教員になった。山岡の父親は元将校で1人息子の山岡に対して躾が厳しく、日頃からそのことを恨んでいた。事件のきっかけは、同じ教員の女性と深い関係となり妊娠させたことから父親に殴られ折檻をうけたことがきっかけだった。昭和25年2月21日、最高裁で死刑が確定したが、その後恩赦で無期懲役に減刑された。

呉の高校生が決闘で刺殺
昭和28年3月1日、広島県呉市宮原町の旧海軍練兵場で介添人や助っ人ら7人を引き連れて来た市立呉港高の男子生徒と、同じく音戸高生ら6人を引き連れて来た県立宮原高2年の男子生徒が決闘を行い、呉港高の若宮伸(当時17)が心臓を刺されて即死、ほか3人が負傷した。2月27日午後5時に宮原高2年の男子生徒が友人2人を連れて呉港高の男子生徒に決闘を申し込んでいたもので、決闘に参加した高校生11人と無職の少年(当時17)の計12人が逮捕された。

八本松の山中で白骨死体
昭和36年3月12日午前10時頃、広島県賀茂郡八本松町篠字田房の山中で、植林中の者が白骨死体を発見。西条署で検視の結果、慎重1メートル62センチ、24、5歳前後の男と分かっただけで身元不明。

大崎上島の防空壕で中学生7人練炭ガス中毒死
昭和38年3月16日、広島県の大崎上島北側の豊田郡大崎町大串の古い防空壕で、3月15日に町立西野中を卒業したばかりの15歳(当時)の少年6人、14歳(当時)の少年1人が死んでいるのが見つかった。3月15日午後7時に練炭火鉢と酒を持ち込み7人はすき焼きパーティをしていたらしく、午後9時から10時までに一酸化炭素中毒で死んだものと思われた。0.36リットル入りの清酒のガラス瓶とワイン1.8リットル入りのガラス瓶が空になって転がっており、酔ってガスがまわるのがわからなかったらしい。7人のうち1人が大阪へ就職する予定で、6人は県立尾道北高へ進学する事になっており送別会のつもりだったが、家の中では酒は飲めないため1人の少年の家の近くの30mの場所にある防空壕に入り込んで宴会となったもの。防空壕は幅1m、高さ1.2m、奥行き8.6mだった。

呉の漁船で少年5人シンナー中毒死
昭和42年6月13日、広島県呉市阿賀町大入の旧海軍魚雷発射場の月星工業内湾桟橋に船首を突っ込んでいた漁船の中から16歳少年ら5人の死体が見つかった。午前6時、この漁船は音戸町の漁民桟橋から消えているのを所有者(当時61)が探していて、発見したところ中に5人の少年の変死体を見つけたものだった。当初、少年の死因はよくわからなかったがシンナー遊びによる中毒死と判明した。この頃はまだシンナー遊びについてほとんど世間には知られていなかった事から、シンナー中毒死という側面よりも変死という部分が強調された報道となった。

大竹市の瀬戸内海で宣教師家族ら7人水死
昭和42年12月9日、広島県大竹市阿多田島海水浴場に米海兵隊員が泳ぎ着き助けを求めた。米兵は3時間かけてモーターボート福音丸が転覆、漂流しているところから泳いで来たという。福音丸では他の米兵1人と岩国のバイブル宣教師教会の米人牧師(当時33)の1女3男の子供4人の計5人が死んでおり、午前6時40分には牧師とその妻(当時29)、さらにもう1人の米兵が救出され、教会寄宿の帝人岩国工場の女性従業員(当時21)が死んでいるのが見つかり死者は6人となった。一行は12月8日午後5時35分、米軍岩国基地船着場からボートで出発して8km離れた阿多田島(800戸)にキリスト教の伝道に向かったものの、午後6時にボートが浸水して12月9日午前0時に転覆したため船底にしがみついて助けを待っていたが、午後11時の岩国の気温は-4.7度だった。12月9日午後2時30分、東洋紡岩国工場の男性従業員(当時32)が死体で見つかり死者は7人となった。

瀬戸内シージャック犯を狙撃・射殺
昭和45年5月12日午後2時、広島市尾長町からライフルを持った2人の男がいると通報が入った。2人は、5月10日に福岡市の柳小路で車を盗み、5月11日に山口県で警官を刺した3人組のうち、その場で逮捕されずに逃走した2人だった。警察は、午後2時30分に広島県安芸郡府中町のキリンビール工場前の県道で2人を発見。広島東署大州派出所の巡査ら2人が近づき、ライフル2人組のうちの1人、大工(当時19)を逮捕したが、もう1人の男、川藤展久(当時20)が巡査(当時23)のピストルを奪い、通りかかった男性店員(当時20)の運転する軽トラックに乗り込んだ。そのまま川藤は男性店員を脅しながら「キャラバンに行け」と広島の繁華街にあるバーの名前を挙げ、広島市立町の同じビルにある住吉鉄砲店に押し入り、店長の長男(当時22)にピストルを突きつけてライフルなど3挺、実弾80発、散弾250発を奪い取った。さらに川藤は店の前を通ったかもめタクシーに乗り込み、広島市宇品町1丁目の広島港桟橋で下車、午後4時30分に待合室に乱入した。川藤は、今治行き定期汽船「ぷりんす号」丸の事務長(当時57)にピストルを突きつけて船に乗り込んだ。「ぷりんす号」には乗客33人、乗務員11人が乗っており、川藤にシージャックされたまま午後5時20分に出航、川藤は岸壁に発砲して広島南署の警部補(当時46)にけがを負わせた。午後9時43分には愛媛県松山市高浜町の松山観光港第2桟橋に入港、川藤は岸壁に向けて発砲を繰り返して船長を交渉役として「代わりの船を用意するか、給油するか」と要求、要求に応じれば人質を解放するとしたため、愛媛県警では「ぷりんす号」に給油を行い、5月13日午前0時50分、8時間ぶりに乗客ら37人が解放された。乗務員7人はそのまま人質となり、「ぷりんす号」は松山を出航、午前9時前に広島港桟橋に逆戻りした。川藤はまたも岸壁に向けて発砲を繰り返すので、警察では川藤の父と姉を呼び寄せて200m離れた巡視船からハンドマイクで呼びかけるが、川藤は巡視船に向けて発砲した。午前9時52分、大阪府警の巡査部長が「ぷりんす号」から身を乗り出して左手にライフルを持っていた川藤を80m離れた場所からライフルで狙撃したところ、1発の発砲で川藤に命中し、川藤は左胸に弾が貫通して午前11時25分に死亡した。テレビカメラが始終を撮影しており、射殺のシーンはテレビで何度も流れた。この射撃で川藤が倒れる際には広島港の2000人の群衆は歓声を上げたが、「ぷりんす号」乗組員には川藤に同情する声もあった。警察側の犯人負傷を狙ったたった1回の発砲でシージャック犯人が射殺されるという予期せざる事態だったが、川藤は鉄砲店からライフルを奪って116発も発砲して民間人1人と警官1人にけがを負わせ、民間人1人と警官2人にガラス破片でけがを負わせていた。川藤は倉敷の飲食店経営者の三男で、男5人女1人の兄弟だった。中1で家出、昭和42年に尾道で工員をしていた際に空き巣で捕まっている。昭和45年4月30日には福岡市西堅粕4丁目の花見荘で部屋を借りていた。その際に年増女性と小さい子供も一緒にいたが、すぐにどこかへ去ったという。5月15日、札幌弁護士会の入江五郎弁護士(44)、下坂浩介弁護士(33)が狙撃を指揮した広島県警本部長と、実際に狙撃手となった大阪府警巡査部長を殺人などで広島地検に告発したのである。さらに5月16日、社会党広島県本部は「見せしめのための射殺の意図が濃厚だ」などと広島県警本部長に抗議した。世論の大多数は射殺やむなしという反応だったものの、知識人と称される人々や一部マスコミ、左翼関係者らはライフル魔を被害者扱いして警察を殺人鬼呼ばわりしたという。これが後に連合赤軍の浅間山荘篭城事件に際して警察側が発砲出来ず、犯人からの銃撃に警官や民間人多数が死傷するという出来事の伏線となったと言われている。

呉の中学生が三瓶山で同級生に殺害される
昭和47年12月3日、島根県大田市の国立公園三瓶山で、市内の中学3年の男子生徒(当時15)が、一緒にいた呉観光開発会社職員長男の志学中3年の原田一志(当時15)が猟銃を持った見知らぬ男に撃たれて病院へ連れて行くと車に乗せられたまま誘拐されたと訴え出た。警察で取り調べたところ午後9時40分、誘拐などは狂言でこの男子生徒は友人を登山ナイフで刺殺した事を自供、午後11時40分、麓の雑木林の雪の中から友人の死体が見つけられた。2人はスキー仲間で小学生時代には同級生だったが、加害者の男子生徒の方が他地区へ引っ越して離れ離れとなった。しかし2人の父が大田市スキークラブの準指導員だった関係から2人は県大会でライバル同士で、いつも原田が優勝して男子生徒は2位だったという。男子生徒の父は小学校の教師をしており、弟も入れての4人家族で平穏な家庭環境であったという。

呉の鉄工員がホストの首絞める
昭和51年6月10日、八海事件の被告、吉岡晃(当時48)が5月24日午前1時に自宅に連れ込んだホスト(当時27)と口論になり、首を絞めて3週間のけがを負わせたとして殺人未遂で逮捕された。吉岡は八海事件で昭和28年9月に無期懲役となり、昭和46年9月に広島刑務所を仮出所、広島の呉で鉄工場の工員をしていた。

宮島のホテルで文通相手を殺害
昭和52年6月24日、広島県佐伯郡宮島町のGホテル5階の部屋で、山形市門伝に住む山形農協職員の高野利子(当時18)が布団の上で全裸になり、ホテルの浴室の腰紐で二重に両手足も縛られて絞殺されているのが見つかった。この部屋に泊まっていた広島県三原市西宮町に住む工員、実光(当時20)が午前8時30分、2.2km離れた杉之浦で雨の中、半裸で歩いているのを逮捕された。高野は農協の研修旅行で同僚28人と一緒に6月23日午後にホテルに到着、2階の大広間で宴会をしていたが午後9時、同僚に5階の部屋にペンフレンドが泊まっているから会いに行くと言い残したまま行方不明になっていた。高野は3月に就職したばかりで、農協に入った後に加害者と文通を始めたという。実光は6月23日午後5時30分に1人で宿泊、午後9時30分、部屋に高野が来たので雑談、レイプをしようと襟首を絞めて気絶させて暴行し、さらに首を絞めて殺した後、午後11時30分、エレベーターで1階へ下り、大浴場の窓から外へ出たという。上着は雨の中、捨てたという。これまでに手紙のやり取りは3回あった。実光は昭和50年11月から1年間、レイプで少年院に入っていた前歴があった。

三菱銀行人質事件
昭和54年1月26日、大阪府大阪市住吉区万代二丁目の三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質に立てこもった事件。詳細は下記リンク参照。
http://hiroshima999.blog134.fc2.com/blog-entry-123.html

前尾道市長夫妻が殺される
昭和55年2月9日、広島県尾道市浦崎町の前尾道市長、佐藤勲(当時52)の自宅2階寝室で佐藤とその妻(当時46)が血まみれで死んでいるのが見つかった。2人は死後7時間から8時間、刃物で滅多刺しにされており、電話線が切られて物色の跡がない事から殺されたものと思われた。作業服の男2人が現場近くで目撃されており犯人ではないかと疑われた。前市長夫妻は次女(当時23)と3人暮らしだった。尾道市発注の向東町学校給食共同調理場の建設請負工事選定などで便宜をはかった謝礼として前市長は市長在任時、業者4人から昭和52年9月から昭和53年12月の間に三百数十万円を受け取っており、昭和54年3月26日に逮捕されていた。

福山市で小学生を誘拐殺人
昭和59年2月13日、福山市議で大和化学工業専務(当時39)の長男で福山市立樹徳小3年の森田泰州(当時8)が下校途中、行方不明になり、午後7時50分、家に「キャッシュカードの暗証番号を教えろ」と脅迫電話が入った。午後8時26分、市議の妻(当時36)は車に捜査員を乗せて指定された福山城裏の公衆トイレに子供の下着を持って出向いた。すると電話の通りに目印として犯人により子供の紺の野球帽が置かれていた。その後、犯人からは「警察がいる」と電話が入り、2月14日午前0時2分に4回目の電話で福山八幡宮前の車の上に鞄が置いてあるのでそこに金を入れるように指示、さらに市議の妻に自転車で現地まで来るように言った。ところが犯人は現れなかった。午前3時33分に7回目の電話が入り、午前3時55分、再び市議の妻は15万円と広島銀行のカードを風呂敷に包んで持参した。すると白のファミリアの男が市議の妻が持参したカードなどを入れた鞄を持ち逃げ、午前4時15分に8回目の電話が入り、通帳に1000万円を入金しておくように指示したがこれが逆探知され、福山市沖野上の公衆電話から犯人がかけている事がわかった。  
午前4時25分、白いファミリアに乗った男が連行されて午前7時15分に逮捕された。男は文房具店経営の津田暎(当時44)で、昭和54年からソフトボールチームのコーチをしておりメンバーだった泰州とは顔見知りだった。昭和57年からは泰州の父の市議の後援会にも入っていた。津田は下校途中の泰州に「バレンタインのチョコレートを貰ったか」と尋ね、泰州が「貰っていない」と答えると「買ってやろう」と泰州を車に乗せた。東深津町の天満屋デパートでチョコレートを買い与え、津田は鞆町の福山グリーンラインをドライブ、午後6時30分、泰州が泣き出したので展望台先の広場に車を止めてネクタイで絞殺した。初めから殺すつもりだったという。

福山市の雑木林で死体が見つかる
昭和59年2月15日、広島県沼隈郡沼隈町能登原の雑木林から泰州の死体が見つかった。福山グリーンラインの後山展望台から南1kmの瀬戸内海を見下ろす駐車場から6、7m下の場所だった。泰州の父は誠友会に属し2期目で、自民党の佐藤守良衆院議員の直系だった。津田はPTA役員もしていたが、麻雀狂いでサラ金8社に120万円、信販会社に265万円、国民金融公庫に300万円の借金があった。昭和56年には福山葦陽高の同窓会会計をした際に津田は300万円のチケットの3分の1を着服した騒ぎもあった。

山陽新幹線から飛び降り自殺
昭和61年4月26日、広島県尾道市西藤町の山陽新幹線福山-三原間で上りの博多発東京行きひかり102号が急停車し、10両目後部左側のドア非常コックが開いているのが見つかった。乗客の飛び降りと思われ、馬場トンネル東出口で群馬県渋川市の会社員男性(当時48)の死体が発見された。3月から広島県大竹市で勤務していたが4月25日に退職したばかりで、群馬へ戻るところだったという。


広島県職員がおいを殺害
平成4年7月8日午後8時40分頃、呉市天応西条3丁目の畑で同所会社員浜崎敦さん(当時21)がナイフで刺されていると通報があった。呉署員が現場にいた隣の広島県土木建築部道路維持課技術員中佐古文相容疑者(当時41)を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。浜崎さんの死亡が確認されたため、殺人容疑に切り替えて同容疑者を調べていた。調べでは、中佐古容疑者は午後8時35分頃、自宅横の畑でおいの浜崎さんを果物ナイフ(刃渡り15センチ)で刺した疑い。浜崎さんの傷は心臓に達し、ほぼ即死状態だった。中佐古容疑者は調べに対し「前日から浜崎さんの方が騒がしかった。今日、浜崎さんを訪ねたところ、殴られそうになったので、自宅からナイフを持ち出し刺してしまった」と自供した。犯行当時、中佐古容疑者は酒を飲んでいた。浜崎さんの母親と中佐古容疑者は姉弟で畑を隔てて隣に住んでいる。付近住民の話では平素は仲が良さそうに見えたという。(1992/ 中国新聞)
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松本裕見子誘拐事件
を忘れてはならない
2014年08月31日(Sun) 12:06












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