【広島・昭和の事件史~「仁義なき戦い」やくざ関連】

山上光治が自殺
昭和23年3月23日、病気療養のため刑務所を出て行方不明となっていた無期刑囚、山上光治(当時26)が広島市猿猴橋町の日劇で映画を観ているのを警官2人が発見、山上は映画館を出て10m先の酒類配給所の好川義兌(当時57)方に侵入して風呂釜に立て篭もり、武装警官二十数人に包囲された。映画終了と退勤時間が重なって数千人の人だかりとなり、逃走不可能と知った山上は拳銃で自ら額を撃って自殺した。山上は呉で徴用工をしていた19歳の時に広島市胡町で遊び人の喧嘩の仲裁に入って相手を刺殺して1年6ヶ月服役、昭和21年4月中旬には広島市旭町の元広島被服廠倉庫を他の仲間と襲って巡査を射殺して逮捕され服役していたが、同年11月4日に刑執行停止となり病院に送られていた。その後、行方不明となり昨2月18日夜、広島市猿猴橋町の岡組事務所前で菅重雄(当時33)を射殺、1月5日夜には比治山町の吉川方で山口芳徳(当時21)を射殺して逃走していた。山上は昭和48年に公開された映画「仁義なき戦い 広島死闘編」の主役、北大路欣也演じる山中正治のモデルとなった。

大西政寛が自殺
昭和25年1月4日、広島県呉市和庄通りの高日神社付近で海岸通り人夫の大西政寛(当時26)が大西輝吉(当時24)と喧嘩しピストルで射殺した。大西政寛は知人宅に潜伏したが1月18日午前3時、呉市武装警官40人に包囲され、ピストルを乱射して捜査係長の数田理喜夫警部補(当時35)、鞆井清刑事(当時27)を殺害して自分も口中にピストルを撃ち自殺を遂げた。大西政寛は映画「仁義なき戦い」で梅宮辰夫演じた若杉のモデルとなった人物である。

広島「仁義なき戦い」が全国展開
昭和28年1月19日、後に映画の「仁義なき戦い」で有名になった広島戦争が東京でも詳細が報道されたという。「仁義なき戦い」は、広島市松原町と赤線区域の弥生町一帯を舞台にした村上組、岡組の対立である。下柳町の土建業、岡敏夫(当時40)、松原町のテキヤ、村上正明(当時33)のそれぞれ配下によって戦後に既に30件の傷害事件が起きていた。昨11月6日の村上狙撃事件から激化したという。広島戦争の背景には呉、岩国の進駐軍基地にいる5000人の夜の女を通じて朝鮮戦争帰りの兵士から銃が広島市の暴力団に流れた事や、昨10月に広島市に競輪場が出来て警備利権をめぐる主導権争いなどもあった。ピストルは新型1挺で20から50発の弾丸付きで8000円から1万円、レンコン型1挺で同じく4000円から5000円だった。発砲事件に関与していたのはほとんどが30歳以上の組員だったという。11月25日朝には神戸市東灘区東明町7丁目の情婦の家で、村上組二代目村上正明がピストル1挺を所持したまま逮捕された。 

共政会幹部が射殺される
昭和45年11月18日、共政会の原田昭三副会長(当時43)ら5人の乗った車が大阪の天王寺署に横付けとなり、「撃たれた」と訴えて中の3人が血まみれとなり、原田副会長が死亡した。車は浅野組組長(当時47)の運転で大阪市西成区今池町の松田組へ山田新会長襲名披露の挨拶に行く途中で、神戸の忠成会幹事長の衣笠組組長(当時34)がタクシーで先導して道案内しており、今池町59の南海電鉄平野線今池1号踏切北側の新紀州街道で道路にいた男にピストルを乱射されたという。男は近くの車で逃走したが、この車は共政会俠道会高橋組幹部の車だった。共政会は山田久理事長(当時41)の三代目会長就任をめぐり内部で争いが起きていた。11月24日に山田新会長の襲名披露が宮島で行われる予定で、副会長は原田、理事長には傘下の十一会会長の竹野博士(当時36)が就任予定だった。 昭和39年に山村組、山口組(後の十一会)、村上組など7組織が合併して共政会を結成、旧本多会の系列に入り、山口組打越会とは対立関係にあったが、警察に根こそぎ逮捕されて山田だけが幹部では逮捕されずに残り、配下の組員を維持していた。この一連の動きは「仁義なき戦い」のモデルとなっている。
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