【広島・昭和の事件史~脱線・転覆・落下死亡事故関連】

河内町の山陽線で鉄橋転落事故
昭和6年1月12日、山陽線河内-本郷間の河内駅東方、関西の箱根と呼ばれる交通危険地帯の広島県豊田郡河内町の椋梨川鉄橋を下関発1月11日午後9時50分の上り東京行き2、3等急行10列車が通過した際に、機関車が下り線路に横倒しに脱線して3等ボギー客車から転落した。1両目は仰向けに、2両目は逆立ちに、3両目は粉砕、4、5両目は川の中で逆立ちとなり、いずれも3等車だった。6、7両目の3等車は脱線、8両目の食堂車、9両目の2等車、10両目の2等寝台も脱線していたが、11両目の2等寝台車、手荷物車、郵便車は無事だった。現場は雪が降っており、列車には無産党の浅原健三衆院議員が乗っていたが無事だった。乗っていた438人のうち7人が死亡、103人が負傷した。犠牲者には佐賀県東松浦郡有浦村長で佐賀県議の青木東太郎も含まれていた。スピードの出しすぎが
事故の原因だったという。

音戸町沖で客船が沈没し30人死亡
昭和7年9月13日、広島県安芸郡音戸町の音戸港を出港した第5柏島丸は呉海軍工廠へと向かう途中の警固屋町沖100mで後続の新栄丸が追い越そうと接近したために横波を受けて左に傾き、定員26人の4倍を超す乗客は右舷へと殺到、そのまま船は沈没して30人が死亡した。第5柏島丸は博愛丸の修理中の代わりの船として運航していた。なお業務上過失傷害致死、船舶覆没罪に問われた船長(当時39)は昭和8年2月21日、大審院で罰金300円となっている。この沈没事故は事故そのものよりも裁判の途中における刑法上の期待可能性理論の論議で戦前は法曹界に広く知られた。

神石帝釈峡神龍湖で卒業旅行の船が転覆し14人死亡
昭和9年3月24日、広島県の備北にある神石郡永渡村の帝釈峡の神龍湖で、比婆郡田森村の粟田尋常高等小の尋常科6年と高等科2年、公民科の男女生徒43人と引率の男女教師が乗っていた犬瀬遊覧船が浸水して転覆、生徒12人と教師2人が死亡した。一行は卒業を前に修学旅行に来ていた。

尾道沖で汽船が沈没し11人死亡
昭和10年1月21日、広島県の尾道を出て豊田郡豊浜村豊島へ向かう発動汽船大崎丸が、午後4時、豊田郡東野村の生野島沖1000mで暴風雨で沈没、30人以上が乗っていたうち11人が死亡した。


宇品沖峠島で舟が沈没
昭和13年1月2日、江田島汽船の宇品-江田島航路みどり丸が年始帰りの客60人近くを乗せて広島県の宇品から江田島へ向かう途中、宇品沖峠島で沈没した。正確な乗客総数は不明だったが、救助されながら死亡した者と漂着死体の合計は32人であった。

呉の長浜港で艀から19人が転落死
昭和18年11月20日、広島県呉市長浜港に寄港中の今治発宇品行きの定期船、広島港湾汽船の公安丸から70人が下船して広長舎の艀2隻にそれぞれ35人ずつ乗り込んで桟橋へと向かったところ、うち1つの艀が浸水したため乗っていた客が次々に海に転落して19人が死亡した。

尾道鉄道が転覆し37人死亡
昭和21年8月13日、尾道鉄道市村行き電車が広島県御調郡木ノ庄村の石畦-畑間で石畦駅を出てすぐに脱線転覆、37人が死亡した。

因島御調郡重井村西港で愛媛汽船が転覆し36人死亡
昭和22年12月29日、広島市尾道市中央波止場を出発した愛媛汽船の今治行き貨客船福盛丸が125人の客を乗せて午後1時15分、広島の因島の御調郡重井村西港に入ったが、客が片側に押し寄せて強風も吹いたために転覆、36人が死亡した。

安芸太田町の三段峡で桟道崩れ高校生7人死亡
昭和27年11月2日、広島県山県郡戸河内村の三段峡で広島皆実高造船科3年の23人と教師7人が夫婦渕近くにあるコンクリートの桟道で記念写真を撮影中、桟道が崩れて生徒7人が死亡した。

安佐北区飯室でバス転落10人死亡
昭和28年8月14日、広島県安佐郡飯室村幕ノ内峠下り坂七曲カーブで広島電鉄の大型バス八丁堀発三段峡行きが35m下に転落、10人が即死した。バスには十数人が乗っていたが、現場は車の転落事故が多く有名な場所でカーブを切りそこねて転落したという。

三原市佐木島向田野浦沖で第5北川丸が沈没し113人死亡
昭和32年4月12日、広島県三原市に属する瀬戸内海の佐木島向田野浦沖の寅丸礁付近で芸備商船の定期客船第5北川丸が向田野浦から尾道へ向かう途中に沈没、定員77人のところを200人以上が乗っており113人が犠牲となった。この中には岡山県総社市の町内会の春の旅行中だった56人、都窪郡早島町共販組合の40人、同じく岡山県の笠岡税務署員20人などの団体客が含まれていた。第5北川丸は大正13年建造の古い木造船で、瀬戸田港を超満員で出発した数分後には寅丸礁に船尾をぶつけてそのまま惰性で乗り上げてしまい、右に傾いてわずか3分で沈没した。船長は切符の整理中で舵は見習い船員(当時16)がとっていた。岩礁に気づいた船長が急いで舵を奪ったものの間に合わなかったという。なお船長は助かったものの見習い船員は行方不明なので詳細は不明だった。船に救命胴衣が39個しかなかった事も被害を大きくした。この瀬戸田航路は西の日光と呼ばれる耕三寺への参拝ルートで、客を積めるだけ積んだり、航海中は船長ではなくて無資格の乗組員が舵をとる事が多かった。死体は佐木公民館などに収容された。4月15日には船体が引き揚げられ、中から老人ばかり14人の死体が発見された。船会社と船長の過失は免れない事故であった。

福山港でタグボート沈没10人死亡
昭和38年7月27日、広島県福山市新涯町の福山港で日本鋼管建設の埋立て現場へと向かう下請けの水野組の人夫57人と乗員2人を乗せたタグボート第13湊川丸が重みで傾いて沈没し、10人が死亡した。定員の5倍を乗せた事が原因だった。沈没したのは港から400m沖で、水深8m、対岸まで50mの場所だった。
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