西城秀樹の実姉は恵美子、大阪ミナミで「宅見ママ」として有名人

週刊文春に「西城秀樹と姐さん」というタイトルで、西城秀樹の姉のことが詳細に報じられていた。姉の名は恵美子といい、ほとんど公に語られることがなかった。そして今年5月に亡くなった西城秀樹の墓の隣には「俗名 宅見勝」の墓石が立っているという。芸能界入りに反対する両親を説き伏せて、弟の夢を後押しした姉の恵美子、その内縁の夫は、山口組伝説の若頭だった。


18年5月に亡くなった西城秀樹の墓が大阪市天王寺区の広大な墓地にあるという。その墓石の背には、木本龍雄(西城秀樹の本名)の文字があった。木本家の墓には、実父の三朗と実母の靖子が共に眠り、健在である長兄の龍一郎の名も赤文字で刻まれている。

そして、左側に「宅見家」の墓碑があり、墓石のうしろには「宅見恵美子建之」と記されている。恵美子は秀樹の実姉で、日本最大の広域指定暴力団山口組のナンバー2だった宅見勝の内縁の妻。

スター歌手を生前から支えてきた二人の女性がいるという。一人は美紀夫人。2001年に結婚して以来、夫に寄り添い、ともに病と闘ってきた。そして、もう一人が、実姉の恵美子である。恵美子は1946年生まれだから西城秀樹とは九つも歳が離れている。男二人、女一人の木本家の長子である。

広島県で生まれた秀樹は生前、両親や兄について詳しく語ってきたが、姉についてはほとんど口を閉ざしてきた。芸能マスコミもいっさい報じていない。

恵美子は芸能界で彼女の存在を知らぬ者がないほどの有名人でもある。理由は秀樹自身の芸能活動において、無縁ではなく、西城秀樹という大スターを生み出した最大の支援者だといえる。そもそも秀樹が歌手デビューできたのも、姉のおかげと言っても過言ではない。


歌手を目指して広島から家出して上京

西城秀樹のデビューのきっかけは、高校一年生の夏休みにジャズ喫茶でアルバイトしていたところ、人気バンド「寺内タケシとブルージーンズ」でボーカルを務めていた広島出身の藤本好一から声がかかり、その縁で上京して歌手を目指したとされる。だが、このとき父三朗の大反対に遭ったという。

「趣味でやっている分には感性が育っていいが、そんなもんで食っていけると思ってるのか!」って、あれほど音楽に理解のあった父が掌を返すように変わりました」(週刊文春00年10月26日号「家の履歴書」)秀樹本人がそう語っている。

父が「もう出さねぇ」って僕を縛って押入れに入れたんです。そしたらお袋が来て「痛かったでしょう。お父さんには私からよく話すから・・・。東京の住所だけは教えてね」って僕を出してくれたんです。(同前)

母親の靖子が父親に内緒で送り出し、当人は家出同然で東京に向かったという。

藤本から紹介されたのが「ジェームズ・カンパニーというプロダクションをやってらっしゃる上条さん」(同前)で、上京した秀樹が、そこに居候してデビューに備えたとしている。

上條英男とは音楽プロデューサー。

「藤本は広島でお好み焼き屋をやっていてね、『いいのがいるから、見に来てくれないか』と言うんだ。わざわざ広島まで行くのも面倒ですが、たまたま高橋英樹ショーが向こうで開かれることになった。僕が育てていた江間優子がその前歌(前座)で『ある愛の詩』を歌うことになったので、ついでに高橋英樹たちと秀樹を見に行ったんです。喫茶店で下手くそな演奏をしていてね。たしか兄貴(龍一郎)が足を引きずりながらギターを弾き、秀樹はドラムをたたいていました」

上條は音楽の世界では知られたプロデューサーで、ジョー山中やゴールデンハーフ、五十嵐じゅんや舘ひろしなどデビューさせてきた。

秀樹は東京・中目黒にある上條の自宅マンションに居候し、音楽修業した。「広島から上京した当日、本人から『実はいま原宿の喫茶店にいるのですけど』と連絡があったんだ。その店は舘ひろしのクールスのメンバーのたまり場だからよく知っていた。そこへ迎えに行き、僕の自宅に連れ帰ったんだよ。はじめ秀樹は四畳半の和室の二段ベッドに寝泊まりさせていたけど、ちょうどハーフの女の子が入ってきたので、秀樹は三畳間の板張りに移してね。背が高いから、部屋から長い脚がはみ出して大変だったね」上條が当時の記憶をたどった。

「音楽の基本はリズムだから、まずは縄跳びを徹底的にやらせました。朝飯前に300回。俺の部屋は最上階の10階で、そのすぐ上の屋上でやらせ、俺は部屋にいて飛ぶ回数を数えていたんだ。けど、あるとき300回も飛んでいないのに『終わりました』と言って誤魔化しやがってね。ビンタを食らわせ『広島へ帰れ』と叱ったんです。そこから秀樹は変わりました。そんなときでした。ご両親が訪ねてきたのは。それとお姉さんが」


姉の恵美子が反対する父親を説得

秀樹が上京してわずか10日後のことだという。実際、これまでにも両親が秀樹を連れ戻すためにやってきたが、父親が折れてそのまま広島には帰らなかったという報道はあった。だが、姉の恵美子が訪ねてきたというのは初耳である。

恵美子も秀樹と同じく、高校時代に家出し、大阪のネオン街でクラブホステスを始めた。そこで宅見と知り合い、愛人となる。46年生まれの彼女は、秀樹が上京した70年頃、24歳前後という計算になる。

家出して10年近く経っており、広島にはいないはずだが恵美子は両親とやって来た、と上條は言う。

「かなり朝早かったね。連絡もなく突然でした。あのときのことはよく覚えているので間違いありません」(上條)

「お父さんたちを前にした秀樹は『わしは広島には帰らん』と広島弁でそう言った。歌手になる決意は変わりませんでした。それを聞いたお姉さんが『ほなら、お父さんたちは下で待っといて。私が話をするけん』ととりなした。お父さんたちがエレベーターで僕の部屋のある10階から1階のロビーに降りると、部屋に残ったお姉さんは『あんたがそこまで言うんなら、やってみんさい。私がお父さんを説得するけん』と秀樹にやさしく話しました。その広島弁が印象的でした。いいお姉さんだ、と思いましたね」

宅見恵美子は弟と話したあと、上條に向き直ったという。そのときの光景を再現するかのように、上條が上着のポケットに手を入れる仕草をしながら、思い起こした。

「お姉さんが分厚い封筒を取り出してね、それを俺のポケットに突っ込みながら『上條さん、弟のことをよろしく頼みます』というのです。さすがにその場で中身を確認することはしなかったけど、すぐ現金だとわかりました。あとで開けてみると、50万円ほど入っている。驚いたね」

両親も、それからは芸能界入りに反対しなくなったという。

この頃はまだ芸名はなく、本名の木本龍雄のままだった。西城秀樹という芸名は、上條英男の「條」と「英」の二文字に別の漢字をあてて名付けたという。

「しばらくして日劇に秀樹が出ることになって、両親を招待したんです。トム・ジョーンズの『She’s A Lady』を英語で歌わせてね。あまりにうまかったので、見ていたお母さんは、感動して手が震えていました」


大手プロダクション「芸映」と契約

大手芸能プロダクション「芸映」との契約にこぎ着けたのも、上條だった。

「秀樹はまだ16歳なので親が契約に立ち会わなければならない。そこでご両親に上京してもらい、僕といっしょに赤坂にある芸映のオフィスで契約をしました」

そこから居候先を芸映の所属マネージャーだった相馬和也宅に移し、デビューの準備を始めた。相馬はのちに、ピンク・レディーのデビューを手掛ける敏腕マネージャー。

そして上京から2年後の72年、秀樹は「恋する季節」で歌手デビューした。


独立して事務所「アースコーポレーション」を立ち上げる

80年代に入り、順風満帆に思えた西城秀樹の芸能活動に大きな変化があった。大手プロダクション「芸映」からの独立である。芸能界におけるタレントの独立や所属プロダクションの変更は、並大抵のことではない。それは単純に契約上の問題だけでなく、ホリプロやナベプロ、ジャニーズ事務所やバーニングプロダクションといった大手芸能事務所の力学が、テレビ出演やイベント興業に働くからだ。有体にいえば「仕事から干す」という類の嫌がらせは、日常茶飯事である。また、その裏で裏社会の顔役が動く。

西城秀樹にとって、芸映からの独立は、いわゆるアイドル路線からの脱却を図るためだったとされる。そこで尽力したのが、姉の恵美子だった。

西城秀樹は83年1月に芸映から独立し、84年3月、新宿に「アースコーポレーション」という芸能事務所を立ち上げた。本人が代表取締役におさまり、芸能時代からのマネージャーたちが事務所の取締役に就任した。現在は夫人の美紀が会社の代表を務めている。完全な個人事務所だ。


大阪の「ファインズ・コーポレーション」がサポート

あまり知られていないが、このアースコーポレーションのほかに西城秀樹には、もう一つ、彼の芸能活動を手厚くサポートする会社があった。それが大阪の「ファインズ・コーポレーション」である。この会社の事実上のオーナーが、宅見恵美子だ。現在は代表を退いているが、会社の所在地はかつて「宅見ビル」と看板を掲げていた大阪ミナミの彼女の住まいになっている。

新御三家の一人に過ぎなかった西城秀樹は、芸映から独立し、アイドルから脱却した。それをバックアップしたのが、姉の恵美子にほかならない。

独立後、最初のシングルは「ギャランドゥ」だった。この年の8月、10年続けていた大阪球場公演のラストコンサートを開き、大成功をおさめた。大阪での秀樹の興業を支援してきたのが、姉の恵美子である。

また、ファインズ・コーポレーションは86年5月に公開された「傷だらけの勲章」(東宝)という映画の製作まで手掛けた。エジプトの砂漠で起きた日本企業の社長暗殺事件を描いた話題作。東宝は主役の都築明刑事に西城秀樹を起用し、ちあきなおみや朝加真由美らが脇を固めた。秀樹のためにエジプトロケまで敢行し、評判を呼んだ。

ファインズ・コーポレーションの歴史は古く、もとはといえば「大阪屋商事」として71年に設立された。当時の役員には宅見勝もその名を連ねていた。今でいうフロント企業という位置づけになる。大阪屋商事は、宅見が大阪にやって来たその翌年に設立された。


「宅見ママ」恵美子の人物像

秀樹の姉、恵美子と宅見の出会いは、彼女がホステスとして勤めていた大阪ミナミのクラブ「朱雀」だという。関西随一の歓楽街ミナミを歩くと、宅見恵美子の話題に事欠かない。ネオン街の住人たちは、恵美子のことを「宅見ママ」「宅見姐さん」などと親しみを込めて呼ぶ。いわゆる大物組長の姐さんである。

ミナミの古手のクラブママが解説してくれた。

「宅見の親分が宅見ママと知り合うたんは、福井組若頭の頃ですわ。朱雀でははじめ福井組の組長が宅見ママのことを気に入って通っていたみたいです。それがいつしか宅見親分の係(担当)になって、ああなったんやね。朱雀を辞めさせ、店を持たせました」

恵美子には結婚歴があり、別れた前夫とのあいだには娘が一人いた。ファインズ・コーポレーションには宅見姓を名乗るその“連れ娘”も役員として名を連ね、代表になっていた時期もある。また、宅見と恵美子のあいだにも宅見将典という一人息子がおり、秀樹のバックでギター演奏をしていたこともある。将典は、秀樹の所属事務所であるアースコーポレーションで役員を務めてきた。

別のクラブ経営者が恵美子の歩みについて教えてくれた。

「朱雀をやめたあとの宅見ママは、十三のナポレオンというクラブのオーナーに店を任されていた時期もありました。そこでも宅見親分関係の客が多かったですが、そのうちオーナーママとして、クラブ西城という店を出して繁盛しました」

クラブ西城は言うまでもなく、弟の芸名から名付けられた。“秀樹”の生みの親である先の上條は、店のオープン前に恵美子から連絡があった、と打ち明けた。「お姉さんがわざわざ『店に西城を使っていいかしら』と聞いてきたのです。もちろん構わないと伝えました。やっぱりお姉さんはあの世界に通じているだけあって、義理堅いのですよ」

恵美子は、ほかにもミナミで焼き肉店やステーキハウスなどを経営。通称「宅見ビル」の二階に構えていたステーキハウス「瀬里奈」は、優に50人くらい入れる大きな店だった。恵美子の誕生日になると、そこへ芸能人だけでなく、ゼネコン幹部や政治家、大学教授に至るまで、さまざまな著名人が招かれてきた。大物組長の姐さんだけあって人脈は幅広い。

内縁関係になってから宅見勝自身は、枚方に住む本妻の家とミナミの恵美子宅を往復してきたという。大半を恵美子宅で過ごしたが、週のうち一日は本妻の待つ家に戻っていたという。


宅見恵美子は、光り輝く弟を影から支えてきた。大物ヤクザの娼婦ゆえに、西城秀樹を守ろうと、芸能界の闇をその身で背負ってきたのだろう。



西城秀樹と姐さん 美恵子

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