池田勇人(イケダハヤト)元首相が岸内閣から受け継いだ安保騒動

安保騒動によってゆがめられた議会政治の建て直しと、先鋭化した保守革新の対立をなだめることに置かれ、いわゆる低姿勢路線が貫かれたと言われる「池田内閣」。広島県竹原市に生まれた故・池田勇人元首相は、日米安保条約改定を支持し、安保騒動で退陣した岸内閣を受け継いだ。そんな池田元首相の政治家人生を、当時の報道の中から珍発言などを含めて簡単に回想してみたい。


池田元首相は元々、大蔵省で主税畑を歩いていたが、昭和24年の総選挙で政界入りし、同年、吉田内閣で蔵相に抜てきされた。その後、通産相、自由党政調会長、同幹事長と、吉田茂氏に重用され、佐藤首相とともに「吉田学校の優等生」と言われたが、持ち前の強気な発言が国会答弁で「貧乏人は麦を食え」「ヤミで儲けた人が5人や10人倒産してもやむおえない」などという「正直」な放言を生み、昭和27年11月、衆院本会議で不信任案が可決され、通産相を辞任した。

鳩山元首相の引退後に行われた自民党総裁選挙では、三木武夫氏らとともに石橋湛山氏を擁立し、昭和31年12月、石橋内閣成立とともに蔵相に就任、「一千億減税、一千億施策」などの積極財政を打ち出した。

昭和34年の岸改造内閣では通産相として入閣。日米安保条約改定では、吉田氏とともに当初は慎重論を唱えていたが、最後は対米協調重視の立場から新安保条約を支持した。

安保騒動で退陣した岸内閣のあとを受け、昭和35年7月14日、自民党大会で総裁に選ばれ、同7月18日首班に指名され、第一次池田内閣をつくり、その後4年3カ月にわたり、「池田政治」を推進した。

「池田政治」の重点は、まず安保騒動によってゆがめられた議会政治の建て直しと、先鋭化した保守革新の対立をなだめることに置かれ、「寛容と忍耐」「話し合いの政治」をモットーにいわゆる「低姿勢路線」が貫かれた。三井三池の争議解決(昭和35年11月)、公労協半日スト回避(昭和39年4月)などはこの表れといわれる。

内政面では「所得倍増計画」「高度経済成長政策」を掲げ、積極財政を打ち出し、日本の経済成長は世界的に脅威の目をもって迎えられた。

しかし、昭和39年10月25日、池田元首相は病気療養に専念するため、退陣を決意した。国立癌センターから2、3カ月の療養が必要だと伝えられていた。そして昭和45年8月13日午後0時25分、癌の手術後の肺炎による合併症および心臓衰弱のため65歳で死去した。
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