日本への原爆投下第三弾が決定的だったという極秘文書・被爆70年記念シリーズ第7弾

「ポツダム宣言受諾がなければ、日本への第三弾(3発目)の原爆投下が決定的だった」という極秘文書が過去に見つかっていた。1975年(昭和50年)、広島市が原爆関係資料の複写を依頼していた米国立ワシントン公文書館(NARA)のジョン・E・テーラー(John E Taylor )近代軍事部門責任者から、マンハッタン計画(米国の原爆開発計画)をめぐる極秘メモ、電文など10通の写しが、広島市に届いている。その中に広島、長崎に次ぐ対日原爆投下が、「製造計画が早まり8月17日、18日以降の最初の好天の日に可能」とする文書があり、これまでの「米国は第三弾を用意していた」という通説を具体的に裏付ける資料として関係者の注目を集めた。

この文書はマンハッタン計画の軍側司令官だったL・グローブス少佐が、広島、長崎投下直後の1945年8月10日付でG・マーシャル参謀総長に宛てたものである。全文は、「次のインプロージョン型爆弾は1945年8月24日以降の最初の好天に目標値に到達するよう予定されていた。我々は計画より4日早く製造をなしえて、最後の部分品は8月12日から13日にニューメキシコから船積みできる予定だ。製造上の困難、戦場への移送、到着後の支障がない限り、爆弾は17日か18日以降の最初の好天に投下が用意される」というものである。

文書はコピーで三部あり、軍最高幹部だけに知らされたらしく「極秘」の印が押してあった。インプロージョン型とは、広島に落とされたウラニウム爆弾とは別の長崎型のプルトニウム爆弾のことだ。

この文書には投下地が明記されていないが、当初から投下目標になっていた小倉、新潟のどちらかだった、との見方が関係者のあいだで強かった。

「第三弾」については、その可能性が濃厚であったことが、米国人記者が1960年ごろに伝えたことはあるが、この秘密文書は1973年10月末の「解禁」となっており、公開資料として貴重なものと感心を呼んだ。


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