ヒロシマに原子力発電所計画構想・被爆70年記念シリーズ第5弾

アメリカによる原子力宣伝工作のターゲットとされていたヒロシマで、6万キロワットの原子力発電所を建設しようという動きが過去にあった。1955年1月、シドニー・R・イェーツ米下院議員(Sidney R. Yates ・イリノイ州選出・民主党)が米本会議に議案を提出し、演説した。


イエーツ
シドニー・R・イェーツ米下院議員


そのような構想が持ち上がった背景には、1953年8月、ソ連が水爆実験に成功し、アメリカは初めて核開発に遅れをとったため、1953年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「原子力の平和利用」(核兵器の戦略的活用)を訴え、これまで機密にしていた原子力開発を方向転換させた。

1954年3月に第五福竜丸の乗組員がビキニ環礁で、米軍による水爆実験に被爆し、日本の反核運動と対米感情の悪化が再燃していたが、1954年秋、米原子力委員会トーマス・マレー委員長は、広島での原発建設を提言し、「広島・長崎の記憶が鮮明なうちに日本に原発を作ることは、ドラマチックであり、原爆の惨劇の記憶を乗り越えるだろう」と述べた。


マレー
トーマス・マレー委員長


しかし、この広島原発構想は年をまたがずして立ち消えになるが、翌年の1956年5月には「原子力平和利用博覧会」という形で、広島で開催されることになる。


イェーツ議員は、広島を選んだ理由を二つあげている。第一は、最初に原子力の破壊力を被った広島こそ、最初に原子力の平和的思想を受ける資格があると考えた。第二は、広島市自体の事情が原子力のような発電形式に迫られていると了解しているからで、もし他の日本の都市がより電力が不足し、より近い将来に大きな追加発電を要するなら、建設地点はどこでも良いと考える、と示した。


イェーツ決議案(共同決議案・第180号)
「平和的目的の原子力開発はいまや米国の知識、技能、経験を人類福祉と進歩のため、世界諸国に分かつことが可能な段階に到達しており、さきの大統領声明に示された『人間の奇跡的創造力がその死に向けられず、生の浄化にささげされるべき手段の発見に全心情を傾ける』との米国決意を、特に日本に対し表明せんと切望し、原子の破壊力が日本の広島市に始めて体験された事例にかんがみ、米国は同市こそ産業用電力を起し得る原子炉建設により、原子力平和利用センターに選定されるべきだと信ずるがゆえに、米国上下両院は米政府が日本政府と協力し、日本の広島市に原子炉を建設し、産業用電力開発を通じて平和と進歩の増進に寄与するよう決議する。このための共同計画の規定、条件、期間、性質、範囲については1954年米原子力法の規定に従い、日米双方の決定に委ねることとする」。
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