「ヒロシマの記録」・被爆70年記念シリーズ第3弾

広島に原爆が投下され、米軍による占領下にあった広島市の数年間は、原爆被災に関する報道管制が、かなり厳しかったと言われている。そのため放射能などにやられて負傷している人々の治療が大幅に遅れ、より多くの死者を出すという結果になっている。原爆による惨状など全ての情報が筒抜けになることは、米軍の占領政策上、好ましいとは言えなかったからだろう。しかし、原爆投下は人類に対する放射線の「人体実験」の側面もあったと指摘されており、その残虐性がこの世から消えることはない。

こうして歴史を振り返って見てみると、終戦後のヒロシマの在り方については、いろいろな問題を孕んできたように思う。当時の状況を断片的であるが、1945年から1965年までの21年間を「ヒロシマの記録 ~ 年表・資料篇」から主なものを引用してみた。

1945年1945年8月6日8時20分ごろ、爆心地から約7キロメートル離れた地点(府中町)で撮影された広島市上空の原子雲。

プレスコード(報道規制)で広島は閉鎖され、被爆者は手当の方法もなく、急性放射能症で生命を奪われた。

敗戦の混乱、70年不毛説、食糧危機、枕崎台風があり、このような状況のもとでは被爆者対策どころではない、というのが実情であった。
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1946年1946年8月5日、広島市の旧護国神社の広場で平和復興広島市民大会が開かれた。食糧難のさなかだったが、焼け跡の広場には7000人の市民が集まった。「世界平和は広島から」と書かれたのぼりが立てられ、「原子砂漠となった郷土の復興に全力を捧げる」との決意を採択した。 hiroshimanokiroku002.jpg
1947年山陽路視察ご旅行中の天皇は、1947年12月7日、戦後初めて廃墟の広島市へお立ち寄りになった。天皇は市民広場(旧護国神社前広場)に集まった市民約5万人に「このたびは皆の熱心な歓迎をうけてうれしく思う。本日は親しく広島市の復興の跡をみて満足の思う。広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。我々はこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、打ち鳴らされる「平和の鐘」にじっと耳を傾けられた。

この年から8月6日は「復興」という文字を取り去り、単に「平和祭」となった。商店街は福引き付きの大売り出しで平和祭に協賛「ビカッと光った原子のたまに、ヨイヤサー、飛んで上がった平和の鳩よ」(新天地平和音頭)と踊りの列を繰り出し、「ライフ」誌によって「ヒロシマ・カーニバル」と評された。
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1948年1948年8月6日、原爆ドーム(旧産業奨励館)が見える平和広場で平和祭式典が挙行され、市民3000人が集まった。浜井広島市長の平和宣言のほか、占領軍最高司令官マッカーサー元帥(Douglas MacArthur)、英連邦軍司令官ロバートソン中尉(Robertson Horace)のメッセージも披露された。平和広場を「記念公園」とする計画が立てられたのは、この式典の直後である。hiroshimanokiroku004.jpg
1949年1949年7月7日、平和記念都市建設法案が、わが国初の住民投票に問われ、賛成多数(投票率65%)で立法化された。広島市は「世紀の平和立法にこぞって参加しよう」と、投票に先立って、トラックを連ねて投票呼び掛けの運動を展開した。

6月には日本製鉄所広島工場で600人を越す首切りからストライキが起こり、警官隊が工場内に導入されて混乱した。

9月には臨時広島市議会が公安条例を議決、市内の在日朝鮮人連盟本部などが解散を命じられた。
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1950年「己斐町の学校は、三滝町の作業班や、ここまで逃げのびてきた人々が、血を吐いて死ぬので二階も下も死体の山でした」―被爆3日後に広島市に入った画家の丸木位里、赤松俊子夫妻は原爆による惨状を墨絵に描き、1950年8月6日、画集「ピカドン」として出版した。この画集は間もなく占領軍によって発売禁止を命じられ押収された。

このころから、全面講和、反戦・平和の運動も盛んになった。広島では県や市を含めて平和擁護大会は開かれる予定だったが、突然、市が協力を辞退し、8・6の行事すべてが禁止された。広島市警察本部は「反占領軍的または非目的と認められる集会、集団行進、あるいは集団示威運動を禁止する方針を決定」し、8月5日、全市に「平和祭に名を借りる不穏行動に乗るな―知らずして犯罪に問われるな」というビラを配った。
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1951年朝鮮戦争下の年頭にあたり、マッカーサー元帥は、日本が再武装する必要を説いた。ダレス国務長官も日本を反共の壁にしたいなどと言明。

広島市比治山に建設中の広島ABCC (原爆傷害調査委員会=Atomic Bomb Casualty Commission)が1951年1月10日完工。広島市を見おろす比治山の、この蒲鉾型の建物からABCCのステーションワゴンが出入りするようになった。

広島市は、この建設に反対だったが、比治山に敷地を決定し、建築に着工した。

原爆ドームの存廃論が起こった。浜井市長は「金をかけてまで残すべきではない」と、また森戸辰男広島大学学長は「過去を顧みないでいい『平和の慰霊堂』を造った方がいい。ドームをいつまでも残しておくのはいい気分じゃない」と取り壊しを主張した。
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1952年この年は、雑誌、出版物が次々に原爆を取り上げ、大衆の間に原爆反対の意思を育てていった。

1952年8月6日、平和記念公園で丹下健三設計の原爆慰霊碑が除幕された。この慰霊碑には原爆犠牲者の過去帳が納められることになり、この年は5万7902人の氏名が書き込まれた。遺族たちはこの過去帳をひと目見ようと慰霊碑に詰めかけた。この慰霊碑には「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」との碑文が刻まれていたが、この字句は、のちに是非論の対象となった。

11月にここを訪れたインドのパル博士(Radhabinod Pal=極東軍事裁判での無罪論者)は、「原爆を落とした者の手はまだ清められていない。原爆投下者にこそ罪悪を知らすべきだ」と、この碑銘の不明瞭さを衝いた。

同じころ、この碑銘の前に立った物理学者の武谷三男博士は「眠らずに墓の底から叫んでください。過ちが繰り返されそうです」と、書き改めるべきだと考えた。
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1953年元米大統領の未亡人、エリノア・ルーズベルトさん(Anna Eleanor Roosevelt)が1953年6月、広島を訪れた。「原爆投下は戦争の終結を早め、多くの連合軍将兵の生命を救うために正当な措置だった。将来もソ連の侵略に対抗して原爆を使うことがあってもやむおえない」と語り、広島市民の反感を買った。しかし、さすがのルーズベルト夫人も、ケロイドの若い女性の姿にはショックを受け、「強く生きて・・・」と励ますのがやっとだった。hiroshimanokiroku009.jpg
1954年東京。杉並の主婦たちが1953年ごろから訴え始めた「平和運動」は、ビキニでの第五福竜丸被災で急速に全国に波及、広島市でも5月15日、児童文化会館に約700人を集めて「原水爆禁止広島市民大会」が開かれた。hiroshimanokiroku010.jpg
1955年1955年8月8日、第1回原水爆禁止世界大会が広島市で開かれ、歴史的な広島アピールを発表した。この大会で始めて被爆者の苦しみや悩みが明るみに出され、平和運動は被爆者救援と結びついて展開されねばならないという基本線が確認された。「原爆許すまじ」の歌声に終始した第1回大会は、成功のうちに終わったが、広島市民の中からは「死没者の冥福を静かに祈りたいのに、大会で騒がしいのは迷惑だ」との声も出た。hiroshimanokiroku011.jpg
1956年広島原爆病院は1956年9月11日、開院式を挙行。1月に広島日赤病院の隣接地で建設が始まって8ヵ月ぶりだった。鉄筋コンクリート三階建て、建て面積1116平方メートル、120床。公費6500万円は、お年玉つき年賀はがきの「1円寄付」によってまかなわれた。hiroshimanokiroku012.jpg
1957年1957年4月1日、「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」(原爆医療法)が施行された。被爆者団体や関係者の運動がようやく結実、原爆被害者に初めて法の保護が加えられることになった。原爆医療法は被爆者健康手帳の交付、年2回の健康診断を骨子とし、広島市ではこの法律に基いて6月3日から手帳交付、さらに8月1日から原爆病院などで被爆者の健康診断を開始した。

法律としては、原爆に起因する疾病を「社会の責任」と認めて、国が治療費を負担する点では、従来の医療体系を突きくずす大きな意義を持ったものである。広島市では、わずか13日間に6万3千人もの被爆者が殺到、医療面での施策を待ち望んでいたことを裏書きした。
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1958年広島市の平和記念公園の一角で、1958年5月5日、「原爆の子の像」の除幕式が行われた。「広島平和を築く児童生徒の会」が中心となり、平和を求める子供たちのシンボルとして建設されたもので、全国3200校から540万円にものぼる建設基金が寄せられたのをはじめ、海外9カ国からも支援金が送られてきた。像の制作者は菊池一雄。55年秋、白血病で死んだ一女子中学生(禎子)をしのぶため、というのが建設の発端だった。hiroshimanokiroku014.jpg
1959年1959年、原水爆禁止世界大会は英国代表の脱退などを織り込み、大きく揺れた。とくに右翼団体の挑発行為が目立ち、大会の会場や平和行進にトラック、ジープなどで乗り込んで、ノリをぶっかけたり、竹ザオを振り回したりしたため、10数人の負傷者も出た。このとき逮捕された右翼のなかには、浅沼社会党委員長刺殺事件の犯人・山口二矢(当時は仮名)もいた。この騒ぎに対し、警備が手ぬるいという市民の声も強かった。hiroshimanokiroku015.jpg
1960年「再びこのようなことのないよう、世界の平和を念願してやみません」―1960年8月6日、原爆慰霊碑の前で皇太子はこうお言葉を述べられた。このあと原爆病院では、顔中にケロイドのある患者の前でしばし沈黙されたのち「痛みますか」と一言質問されただけだった。約45分にわたって病室をお周りになった皇太子は患者に花を二輪ずつ贈られた。この年、原爆症のため死んだ人は広島市だけで66人にのぼった。hiroshimanokiroku016.jpg
1961年被爆生存者の福祉を向上させるための総合的な施設として1961年4月25日、広島市役所に隣り合って「原爆被爆者福祉センター」が完成した。これは広島原爆障害対策協議会が経営するもので、被爆者の健康管理をはじめ、医療、生活などあらゆる相談に応じ、原爆による障害者の職業指導、授産施設も整えられた。この施設も原爆病院と同じく、国民の零細な善意の結晶であるお年玉つき年賀はがきの寄付金で建設された。hiroshimanokiroku017.jpg
1962年1962年3月、米国の核実験再開声明は日本国民に大きなショックを与えた。広島県原水協(当時)の森滝市郎氏らは、直ちに原爆慰霊碑の前で、抗議のためのすわり込みを始めた。しかし、米国は7月、ジョンストン島(Johnston Atoll)の超高空でメガトン級の核実験を実施。これより先、5月6日にはソ連核実験再開のニュースを聞いた被爆者の一老人が、原爆慰霊碑の前で抗議文を手に割腹自殺を図るという事件もあった。hiroshimanokiroku018.jpg
1963年1963年8月5日夜、第9回原水爆禁止世界大会はついに分裂した。「いかなる国の核実験にも反対」という基本方針を基調報告に織り込むか否か、部分的核実験停止条約の評価などが対立点だった。同夜、全学連主流派は「破産した原水協を乗り越えよう」と慰霊碑前の会場を一部占拠、このため鉄兜姿の警官隊が出動し、混乱を重ねた。広島市長は「独立しなくてもいいようなことにこだわる指導者の気持ちが理解できぬ」と語った。hiroshimanokiroku019.jpg
1964年1964年12月4日、政府は閣議で米空軍参謀総長のカーチス・E・ルメー大将(Curtis Emerson LeMay)に勲一等旭日大綬章を贈ることを決めた。航空自衛隊の育成に貢献したというのが叙勲の理由だったが、ルメー大将は原爆投下時、米軍作戦指導者としてテニアン基地に勤務していたところから、広島に大きな反響を呼んだ。「納得できぬ」「常識では考えられぬ」という声が強く「一将功成りて万骨枯る。一弾投下されて万民死す。一億奮激して勲一等をおくる」とのコラムも現れた。hiroshimanokiroku020.jpg
1965年原爆ドームの存廃論は、ここ何年間か繰り返されてきたが、広島市は40年度予算に原爆ドームの強度調査費として100万円を計上、1965年7月28日から広島大学工学部の手で調査が始まった。原爆ドーム近くにビルが建設され、その工事の振動で崩壊の危険が強まったため、調査に着手したもので「原爆の痛みを忘れぬため永久保存せよ」「見るのもいやだから取り払え」と市民の間でも議論が再燃した。(66年7月永久保存決定)hiroshimanokiroku021.jpg
 
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広島市民の憂鬱
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今年もまたあの日が近づくと原爆死没者名簿に
この一年間に亡くなられた被爆者の
名前が書き加えられるのだろうが、

その方々が亡くなられた原因、
つまり死因は本当に70年前に投下された原爆なのか?
と疑問に思ってしまう。

また原爆の悲劇が日本人に反米意識を植え付けようと企む
反日左翼勢力のプロパガンダに利用されていることが、
広島に生きる者として何ともやるせない。

こんなことでは慰霊碑に刻まれている近いの言葉
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
の文字が虚しく思えてしかたがない。

我々広島の子孫がもっと大きな過ちを犯していたのでは、
被爆者の御霊が安らかに眠れるわけがない!
2015年02月08日(Sun) 21:25












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