1960年代後半に日本政府が核兵器の保有について極秘裏に検討を進めていた

1960年代の後半、日本政府が、核兵器の保有について極秘裏に検討を進めていたことが、NHKが入手した機密資料からわかったという。当時の西ドイツとの間で核をめぐる秘密の外交協議を行っていたことが記されていて、核兵器を持たないという「非核三原則」が定着するまでの経緯を示す新たな事実としている。

機密資料によると、西ドイツとの秘密の外交協議は1969年2月、箱根の旅館などで極秘裏に行われ、この5年前に中国が核実験に成功し、アジアで初めての核保有国になり、これ以上、核保有国を増やさないというNPT=核拡散防止条約が提唱され、戦後経済発展を遂げた日本や西ドイツなどの国が核兵器を持たないよう促された。

秘密協議は、この条約の発効を翌年に控え、日本側が西ドイツ側に呼びかけて行われ、出席者は、日本側が外務省の国際資料部長ら6人、西ドイツ側が当時の外務省政策企画部長ら5人で、秘密協議の中で日本側は「中国に続いてインドが核を保有するなど、アジアで核保有国が増えれば、日本の立場が危うくなる。日本の技術は核兵器の原料を作るのに十分なものだ」として、核兵器を保有する可能性を示し、西ドイツ側に協力を求めた。

これに対し、西ドイツ側は「敗戦で国が東西に分断された現状で、主体的に判断できる問題ではない」として日本に協力することは難しいと伝えていました。秘密協議に参加した日本側の外交官の1人が、のちに外務事務次官となる村田良平さん。村田さんは、核兵器の持ち込みをめぐる日米の「密約」を実名で明かした人物で、ことし3月に亡くなる前にNHKのインタビューに答え、秘密協議の目的について「西ドイツ側と意見交換するなかで、核兵器を持てる余地を残し、大国が作った条件を覆したかった」などと証言した。

秘密協議が行われたのは、核兵器を持たないという非核三原則が1968年に宣言され、1971年に国会の決議を経て「国是」として定着していく過渡期のことであった。

核政策や日米外交に詳しい名古屋大学大学院の春名幹男特任教授は、「非核三原則が宣言された1年後にこうした議論が行われていたことは驚きだ。核兵器を持つことが、国家の発言力・威信につながるという外務官僚の本音が現れており、そうした意識の下、協議が行われたのだと思う」と話している。また、核政策の歴史に詳しい福島大学の黒崎輝准教授は「60年代の時点では、非核三原則が国是であるという認識がまだ低く、政治指導者や外務当局者の間でも国内世論は変わりうるという認識があったと思われる。だからこそ、核の選択という余地も残しておくべきだという議論につながったのではないか」と話している。(NHK)


核兵器は両刃の剣である。本来は使われることのない兵器だが、有効に使えば(発射するのではない)三種の神器とも言えるだろうし、世界の大国は競うように核兵器を増やしてきた。日本がこれからも大国として生きていくなら憲法9条改正に前向きになる必要がある。平和外交ばかりやっていると、圧倒的な軍事力を誇る中国を前にして、日本は国益を守れないだろう。残念なことに広島では国益など考えないところなのだ。自分たちの被害感情ばかりで核廃絶を唱えることが、唯一自分たちの存在意義を主張できるからだ。


1960年代核保有案2

1960年代核保有案3

1960年代核保有案4
 
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