悲しみの福山大空襲「母子三人像」

「福山大空襲」から69年たった8月8日、福山市内の各所で戦没者をしのぶ催しが行われ、同市霞町の中央公園にある慰霊碑「母子三人像」の前では、集まった参列者が黙祷した。福山大空襲は昭和20年8月8日夜、米軍のB29爆撃機91機により市街地の約8割が焼失、300人以上が犠牲となった。「母子三人像」は空襲の翌日、田んぼの中で寄り添ったまま母親と幼い2人の子供が亡くなっているのが見つかり、慰霊のため建設された。像の前では参列者が黙祷し、遺族代表らが献花した。(産経)

福山市のホームページによると、福山への空襲は1945年3月から始まり、最初はグラマンF6F艦上戦闘機によって、大津野村の福山海軍航空隊への機銃掃射が繰り返された。7月31日夜、B29が1機飛来し、空襲予告ビラ約6万枚を散布した。8月8日22時25分、91機のB29が襲来し、約1時間にわたり、556トンの焼夷弾を投下した。市街地焼失面積314ヘクタール(市街地の約80%)、犠牲者数354人、重軽傷者数864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(市民の81%)だった。

予告された空襲~リーフレット心理作戦 /Leaflet Psychological Warfare

本土空襲の第3期、アメリカ軍は焼夷弾のほかに大量の紙の爆弾「空襲予告ビラ」を投下した。伝単とも呼ばれたこのビラは、1945年7月27日から8月5日の間に3種類、計198万枚が32都市にまかれ、実際に半数の16都市が空襲された。


故、荒木計三さんの談話により作成された「母子三人像」

「8月9日の朝、火照るように暑い市内に入り、住吉町の水田の中に、母子3人の焼死体を見つけました。母親は四つん這いになり、胸にすがりついた赤ちゃんを片手でしっかり抱き寄せ、まるで乳を飲ませているようなかっこうでした。そして、その母親の後ろ足を6才くらいの子が両手でしっかりつかまえて、ひざまずいていました。着物などは焼けてしまって、遺体はまるで、ろう人形のようでした。水田の中に入っていれば、水があるので助かると思ったのでしょうが、稲は焼け、水は枯れて母子はむし焼きになってしまったのです。」

母子三人像
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