人類の歴史の汚点となった広島原爆投下

8月になると、忌まわしいあの日が脳裏をよぎる。今年は原爆投下から数えて69年目となる。あの日の聖断の事を、米国政府や指導者の報道記録などから、日本への原爆投下が決定された経過とアメリカ指導者の見解を見てみたい。以下は報道資料から引用。

広島、長崎が原爆の洗礼を受けてから、アメリカの宗教界、および知識階級は、これを「米国史上の汚点」と呼んでいる。この日を「日本国民への謝罪の日」としている教会もある。

昭和20年7月、日本に対し、原爆使用を決定するにあたり、最終権限をもっていたトルーマン大統領、ならびに米国当事者の胸中を往来したものは、原爆被害による非人道性と未増有の破壊力をもつ原子力解放によって、今後の人類の運命が彼らの手中にあるという重大な責任感であった。

この重大な責任感が彼らを悩ませた。原爆製造に立ち会った科学者たちは、戦争目的のために使用することに反対した。だが戦争の早期終結という目前の目標が一切に先行したために原爆投下の断は下された。

原爆投下の計画については、当時、国務省と陸海軍当局との間に意見の対立があった。国務省側は終戦を早めるために原爆を威嚇のために使用すべきで、人口の多い都市を原爆の対象に選ぶべきでないことを強調した。これに対して陸海空当局側は、日本の軍事拠点を破壊する戦略的考慮を第一に主張した。

日本に原爆を投下する歴史的決定は、昭和20年7月2日に行われている。同年4月、ルーズベルトの死後、大統領となったトルーマンは、原爆の使用、及び前後の原子力利用の研究のため、「中間委員会」を組織した。

この委員会は8名の委員で構成され、委員長はスティムソン陸軍長官、バーンズ国務長官が大統領の個人代表として参加し、著名な量子学者オッペンハイマー博士を含む4名の量子学者が顧問となった。

原爆第一号の実験は、6月16日、ニューメキシコのアラモゴード砂漠で行われ、中間委員会は7月1日、大統領に対して、日本の軍事施設をすみやかに原爆することを勧告した。

当時、米軍首脳部は、日本本土の兵力を700万人と推定、11月1日には九州に上陸作戦を開始する計画であったが、日本本土作戦で米軍の死傷者を100万人と予想していた。

7月2日、委員長のスティムソン陸軍長官は、ホワイトハウスにトルーマン大統領を訪れて最終決定を求めた。大統領は勧告に賛成し、日本原爆の断を下したが、そのさい「原爆の使用は遺憾であるが、これ以外の結論はないと思う」と語った。

原爆投下を強く主張したのはスティムソンであるが、彼は「我々はもちろん、かかる強大な破壊力を持つ兵器の使用にともなう責任を理解していた。だが「我々は戦争をしているのだ。原子力兵器を他国よりも先に完成し、先に使用するのが我々の戦事目標であった」と述べている。

また大統領の個人代表だったバーンズは、「日本はポツダム宣言の受諾を拒否したから、原爆使用以外の道は残されていなかった。原子爆弾使用の決定に参加した者で、よろこんでこの結論を下した者はなかった」と述べた。

この中間委員会の勧告に対して顧問であった4名の原子力学者は、反対報告書を提出した。「科学の力によって戦争終結をもたらしうるようなデモンストレーションを行うことはできない」と報告して日本への原子爆弾投下に反対した。しかし、委員会およびトルーマン大統領が日本爆撃を決定したので、彼らはせめて彼ら自身が生み出した「20世紀の怪物」による人命損失を少なくしたいと努力した。

広島、長崎に事前に投下された警告のビラ(予告ビラ)は、彼らの手によって投下されたものである。この警告ビラに原子爆弾であることを明記し、広島、長崎市民の避難を促し、特に日本の原子力学者が事の重大性を理解して、日本の降伏を早めることを願った。

原爆投下前に米軍からの予告ビラはあった

広島が原爆でこの世の地獄と化した時、トルーマン大統領はポツダム会談からの帰路、大西洋上の巡洋艦オーガスタにいたが、原爆投下成功の報に次のような声明を発表した。

「1942年以来、原子兵器完成の競争が、米、英、独との間に行われてきた。だが我々が勝った。20億ドルの予算と12万人の人員で我々はこの史上最大の化学的冒険で勝利を得たのである。史上最初の原子爆弾が軍事基地である広島に落とされたのは非戦闘員の死傷を少なくするためであった。日本が降伏しない限り引き続き、原子爆弾を投下する。不幸にも日本で多数の非戦闘員の生命が失われるだろう。日本の非戦闘員が即時工業都市を去ることを勧告する。私は原爆の悲劇的な意義を理解している。我々がこれを使用したのは、戦争の苦痛を短縮し、多数のアメリカ青年の生命を救うためである」
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