【日の丸・君が代の呪縛再考シリーズ4】「日の丸・君が代」は「強制」ではなく「行事」

小学校からのことを思い出すと、学校教育の中で礼儀作法として、起立、礼、着席があり、同時に「オアシス」があり、歌では、「仰げば尊し」「蛍の光り」「君が代」があった。

これらは、ごく当たり前の学校行事として行っているという認識だった。中高校でも同様だ。特に強制されているという感覚はなかった。

もし、これらの学校行事や作法が、学校内で多数の生徒が出来ないようなレベルのものなら、考え直さなければならないのだが、何とこれが100%出来てしまうのだ。

つまり、「強制」ではなく、ただの学校の「行事」なわけだ。

だから、この程度の作法や行事が出来ないようでは、人間としての柔軟性や臨機応変さもない情けない人間であることの証明となる。人としてどこか未完成なわけだから、この競争社会で生きていくことが出来ないと痛感する。

ならば、競争原理のない教育者をとりあえず目指し、教育現場で仕事にありつけた暁には、黙々と「国旗掲揚・国家斉唱」に対して反対運動を起こすという手しか生きる道がない・・・という事か。

「日の丸・君が代」は戦争に使われ、痛ましい記憶がよみがえるから拒否すると言い、「思想・信条」に反すると、いかにも全うな理由を持ち出すようだが、実はその真意、本心はそんなものではなく、ただの音痴で、それがバレるのが恥ずかしくて、言っているだけかもしれない。つまり、「日の丸・君が代・国旗掲揚・国歌斉唱」反対論者は、その程度のレベルの低い人間であるという事が分かる。
関連記事

Comment













非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL