義手をはずしてステージに上がれと言う佐村河内守はマゾ

週刊文春によると、東京のサントリーホールで「交響曲第一番HIROSHIMA」のコンサートがあり、その前座として佐村河内守(50)は、みっくん(13)に「ソナチネ」の演奏をするように提案した。ただし、ステージに登場するときに義手を外して持っていき、聴衆の面前でそれをつけることを条件にした・・・。

また、佐村河内守は施設や病院を訪れるたびに、障がい児と一緒に写真を撮り、それをまるでコレクションのように自宅のリビングに飾っている・・・。


自己の犠牲や苦痛・苦悩・苦難や逆境からの生還が融和と快楽に変わる、これは普通の人間でも持ち合わせている心理だが、度がすぎるとマゾになってしまう。

「義手を外してステージに上がれ」、などと言う佐村河内守は、どうもマゾの気がありそうだ。

例えば、肉体を踏みつけられたり、縛られたり、吊るされたり、刺されたりすることで、脳内麻薬を分泌させ快楽を覚えたりする人がいる。痛みと苦痛を乗り越えることができれば、快楽だけの世界が待っている。苦痛であればあるほど、得られる快楽は大きい。この妄想は、次第にエスカレートしていく。たとえ体内の血を全て抜かれても、ためらいはないという。そして、その果てには永遠なる迷宮(ラビリンス)が迎えてくれる。

待ち受ける世界では、自分自身が主人公となり、無限の空間を自由自在に操れる。そんな魅力的な世界に行くには、今にも張り裂けそうな肉体の痛みを極限まで耐え抜かなければならない。ある意味、地獄とも言えるが、そんな世界を好む人間も実在する。

「怖いもの見たさ」という事がある。

奇形や残虐性のあるものを見たい心理は本来、好奇心から来るものだが、それを見ることにより、自己嫌悪とも言うべき壁がとり払われ、解放へと導いてくれるかも知れない。ストレスを受け続けた不安定な精神状態にある脳は、時には不可解な行動に出てしまうものだ。佐村河内守は、それに加えてビジネスの拠り所として、身体障害者に目を向けた。

コンサート会場のステージ上で、義手をはめ込むという光景は、痛々しく、見たいと思う人は普通いないだろう。しかし、佐村河内守は、あえてその痛ましい人物像を人前に晒すことにより、より多くの同情を買うべく、指示をしたと言える。このような行為を想像するのも一種のマゾに通じるものがあると言える。


昔、子供の頃、母親とバスに乗っていたら、窓の向こうに30歳位の女の人が、両杖をついて歩いていたのを思い出した。よく見たら、両足の太ももから下が全て義足だった。子供の自分には、その義足が不自然のあまりショックで気分が悪くなったことがある。見た瞬間に、その原因となった事故、あるいは病気の様子や、足を切断する手術の光景、そして、その人のこれからの不自由な生きざまをも想像したのだ。だから今でも義手・義足の人からは、目を背けたくなる。とても義手・義足をはずせ、などとは言えない。
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