週刊ポストも佐村河内守に騙されていた

昨年11月に発売された週刊誌「週刊ポスト」に佐村河内守の記事が写真付きで大きく取りあげられていた。一般娯楽大衆雑誌の中のひとつだが、発行部数で言えば、週刊文春、週刊新潮、週刊現代などと張り合っている。

しかし、記事の内容を読み返してみると、これも見事に騙されていたのだ。プロのライターをも簡単に欺いた今回の事件は、それだけ社会的道義責任があと言える。

以下に記事の一部を抜粋してみた。今回の問題が発覚しなければ、なんとなく納得させられてしまいそうだが。


その6畳ほどの部屋を、彼は「穴倉」と呼ぶ。楽譜と大量の薬が置かれた机。小さなランプに灯された淡い光。マンションの暗い一室の白い壁に背中を付け、彼は座禅を組むようにいつも座りこんでいる。

「音が降りてくるのを待つんです。僕の心の空の上には、いつもびっしりと岩のようなノイズの壁があるんです。・・・」

佐村河内守-今年で50歳になる彼は、近年の日本のクラシック界の中で異様なほどの存在感を放つ作曲家である。

35歳の時に極度の難聴によって聴力を失った彼は、凄まじい耳鳴りと発作に耐えながら、長大な交響曲を絶対音感を頼りに書き続けてきた。その作曲の様子はNHKスペシャルを通して紹介されて反響を呼び、交響曲第1番「HIROSHIMA」は18万枚超の売上を記録・・・

幼い頃から母親にピアノを教わり、交響曲の作曲家になることを志した。自らの被爆二世としての生まれを重んじ、「自分がもし何かを描けるのであれば、広島の祈りや闇、闇の中から生まれる光や希望を表現すべきだと思った」と語る。

だが、若き日から続けた作曲の日々は、幾度も倒れそうになるほどの過酷なものだった。実際に彼は倒れながら曲を書いてきた。音楽大学への進学を拒否し、住み込みのアルバイトをしながら譜面を買ってはコンサートに通った。それはベートーベンやモーツアルトといった伝統的な調性音楽を、現代に新たな形で甦らせようとする闘いだった。そのように独学で音楽理論を学ぶ中で、10代の頃から体を蝕み続けていた原因不明の難聴と偏頭痛が悪化。聴力を失って全ろうとなった。

その日、彼は恐怖のあまり部屋に立ちすくみ、それから作曲に使っていた電子ピアノを懸命に叩いたという。だが、音は聞こえなかった。過去に聞いた交響曲を譜面に書き、スコアと見比べて自らの絶対音感を必死に確かめた。音符に間違いはなかった・・・

佐村河内は「HIROSHIMA」を書き始める前、徐々に聴力が失われていることを隠しながら作曲を続け、ゲームソフト「鬼武者」などの劇伴音楽の世界で名を知られるようになった。しかし全ろうとなった後、彼は過去に書いてきた約2万枚の譜面全てを捨てた。

「本当に音を失い、苦しみの中で瞑想して降りてきた音を信じるようになってから、以前に書いた譜面を見て居た堪れない気持ちになったんです」

楽譜を目で追っていると、当時の自分が何を考えていたかが手に取るように分かった。「この個所では人を泣かせよう」「ここでは楽しい気持ちにさせよう」と作為する自分が、そこにはいた。

「虫唾が走りました。多作な作家には憧れがあるけれど、いま降りてくる音を信じて、昔の音に嫌悪するのであれば、寡作の作家でもう構わない。自分が納得できて、本当に自分が納得できて、内側から生まれた音だけを残していこう、と」

「僕はこの10年間、スピーカーに泣きながらへばりついてきたんです。振動から、どうにか何かを感じられないだろうか、って。・・・」

「演奏会で黙って座っているときは、やっぱりとても虚しくて、苦しいです。情けないけれど、それが何度経験しても乗り越えられない。作った俺にはどうして聞こえないんだろうと思うと、そこから逃げ出したくなる」

それでも彼がコンサートに向かうのは、今の自分にはそれを聞きに来る人たちがいる、という強い思いがあるからだった。サントリーホールで「HIROSHIMA」が演奏された際、彼は指揮者に招かれて壇上に上がった。拍手は鳴りやまず、時間が経つとともにさらに高まっていった。その振動を身体に感じるとき、彼はほんの少しだけ救われた気持ちになると後に言った・・・。


佐村河内守 ピアノ
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