別人作曲問題で広島市民賞を授与された作曲家が本年度の詐欺大賞ノミネート

良くも悪くも利用される被爆地ヒロシマ。広島の事を表も裏も知っている人なら、この意味が瞬時に理解できるだろう。今回の問題は、当事者の社会に対する傲慢で詐欺的な意志が見えてくる。音楽業界や被災地などに与えた影響は大きすぎる。いずれ本性が暴露されることになるだろう。

2月5日、広島の被爆2世として生まれ、耳の聞こえない作曲家として知られる佐村河内守さん(50)の代表曲「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの楽曲について、十数年前から特定の別の人物が作曲してきたことが、代理人の弁護士が明らかにした。

代理人が報道関係者に送ったファクスによると、佐村河内さんはこれまで、すべて自身が作曲したとして活動してきたが、実際は、楽曲の構成やイメージを提案し、特定の別の人物が具体化する形で創作を続けていたという。この人物の側にも「作曲者として表に出づらい事情がある」ことから、佐村河内さんの単独作として発表してきたという。

11日に予定されていたこの曲の楽譜の発売が、4日に急きょ中止されており、佐村河内さんと「別の人物」との間に何らかのトラブルが生じたものとみられる。(毎日)


プロフィール・自著伝によると、佐村河内さんは広島県広島市佐伯区の生まれ。両親は被爆者だという。4歳の頃からピアノを始め、幼時から作曲家を志望したが音楽大に進まず、独学で作曲法を習得したとされる。17歳の時、原因不明の片頭痛や聴覚障害を発症し、35歳のとき、聴覚を失う全聾(ぜんろう)になったという。その後も絶対音感を頼りに作曲を続けていたとされ、「交響曲第一番HIROSHIMA」は、CDの売り上げが18万枚以上となった。

佐村河内さんのゴーストライターである新垣隆講師によると、佐村河内は楽譜が書けない、読めない、正式なクラシックの教育を受けたことがないという。今回、告発しようと決めた理由は、去年11月、月刊誌に「佐村河内は本物か?」という記事が出た。それがほぼ正確なことを言い当てていた。7月に佐村河内の本を始めて読んで、嘘だらけの内容に驚いた。特に少年時代のピアノレッスンの表記は、自分が以前に語った自分自身のレッスン経歴を、そのままなぞっていた、などの理由が重なった。何度も「やめよう」とメールしたり、話し合ったりしてきたが、佐村河内は「続ける」と言い張った。お金の問題とかではない。良心の呵責に耐えかねて、などと語ったという。(日本テレビ)

佐村河内さんは「自分は楽曲の構成をしたが、作曲をゴーストライターに任せてしまったことは、大いなる裏切りであると思っています。ファンや深く傷つけてしまった方に、心よりおわび申し上げます」と話しているという。平成8年以降の作品として発表された曲としては、「交響曲第1番HIROSHIMA」のほか、東日本大震災のあと、被災地で交流していた少女のために作曲したとされる「ピアノのためのレクイエム イ短調」や、それを発展させた「ピアノ・ソナタ第2番」などがある。また、ソチオリンピックに出場するフィギュアスケートの高橋大輔選手が、ショートプログラムで使用する曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」も、おととし発表しており、本人の作品ではないという。


【2008年度の広島市民賞表彰者】

秋山和慶
東京交響楽団の指揮者であり、サントリー音楽賞、芸術選奨文部大臣賞などの著名な賞を受賞。2001 年11月に、広く日本の音楽文化に貢献している点が評価され、紫綬褒章を受章。

上田宗冏
上田宗箇流の家元若宗匠を継承して以来、中国・重慶市の日本庭園内茶室や広島市からドイツ・ハノーバー市に寄贈した茶室「洗心亭」の監修などを行っている。世界各国で茶の湯の紹介、披露を行うなど、国内外で上田宗箇流の指導・普及に努めている。

山本浩二
カープ一筋18年という長きにわたり活躍。この間、通算盗塁231、本塁打王4回、ゴールデングラブ賞10回と走攻守三拍子そろった選手として5回のリーグ優勝に貢献した。その後、野球解説者を経て監督に就任し、1991 年にカープをリーグ優勝に導いた。2008年1月に野球殿堂入りを果たした。

部谷京子
映画の美術監督として1992 年に「シコふんじゃった」でデビューし、1997 年に「Shall we ダンス?」で日本アカデミー賞最優秀美術賞を受賞。2002 年に、原爆をテーマにした作品である「鏡の女たち」に携わったことをきっかけとして、2005 年以降は毎年、原爆犠牲者の鎮魂のため、懐かしい広島の風景等を影絵で表現する「小さな祈りの影絵展」を広島市内で開催。2008 年には、「それでもボクはやってない」で2度目の日本アカデミー賞最優秀美術賞を受賞した。

見延典子
大学の卒業論文で小説「もう頬づえはつかない」を執筆し、これがベストセラーとなり、後に映画化された。結婚を契機に広島市に移り住み、その後も執筆活動を続け、2001 年に頼山陽の母の生涯を綴った「すっぽらぽんのぽん」で頼山陽記念文化賞を受賞した。

細川俊夫
ドイツへ留学し、以後ヨーロッパと日本を拠点に作曲活動を展開。海外では早くからラインガウ音楽賞やムジカ・ヴィヴァ賞などの著名な賞を受賞。2008年3月、第39 回サントリー音楽賞を受賞。

森浩昭
1993年から障害者作業所の製作品を一般企業の店頭などで販売する活動「僕らのアトリエ」を始めた。その後、廃棄物として捨てられていたかまぼこ板を作業所に提供し、その作業所は、同氏からの商品開発のアドバイスを受け、木製メモスタンド「折り鶴の少女」の開発を行った。障害者施設の自立経営を目指し、企業と福祉施設の関係をコーディネートしている同氏の活動は、これからの障害者福祉の進むべき方向性に大きな手掛かりを与えるものとして高い評価を受けており、2006年に読売福祉文化賞大賞を、2007 年12月には第4 回精神障害者自立支援活動賞(リリー賞)を受賞した。

佐村河内守
被爆二世として生まれ、20代で聴覚異常を発症し、35 歳で一切の聴覚を失い全聾となりながらも、作曲活動を続けた。全聾後に作曲した交響組曲『ライジングサン』(ゲームソフト「鬼武者」の音楽)は世界で高く評価されている。平成15 年(2003年)には、自らの苦という闇と原爆の闇を重ね合わせながら、被爆体験の継承と核兵器の廃絶への思いを込めた曲『交響曲第一番』を作曲した。2008年9月のG8議長サミット記念コンサートでは、『交響曲第一番』の第1 楽章及び第3 楽章の初演を行い、多くの聴衆から喝采を浴びた。

社団法人広島県医師会会長碓井静照
海外在住の被爆者を支援するため、1977年から北米において、被爆者への健康診断、健康相談などを隔年で実施している。また、1985年から南米においても、ほぼ隔年で同様の医療支援に取り組んでいる。2008年10月で、北米・南米の被爆者への医療支援は30回目を迎えた。「被爆者はどこにいても同じ被爆者、どこの被爆者にも同じ医療を」という人道的観点に立って、来年は、更に活動範囲を拡大し、北朝鮮への医療支援を計画している。また、核戦争を防止し核兵器の廃絶を求める地球規模の医師組織の連盟で、1985年ノーベル平和賞受賞団体であるIPPNW(核戦争防止国際医師会議)の日本支部を同会内に設置するなど、IPPNWの活動を支援している。

ニュー双葉美容室社長沖絹子
同美容室は、1957 年から盆前と年末の年2回、先代社長の発意により、被爆者を励ますために、原爆病院(現広島赤十字・原爆病院)で髪のセットや化粧などの美容奉仕活動を行ってきた。先代社長が亡くなった1982年以降も、二代目社長が先代の遺志を受け継ぎ美容奉仕活動を続けており、2008年7月で101 回目を迎えた。

広島市立幟町中学校生徒会生徒会長山口富夢
「原爆の子の像」は、佐々木禎子さんの母校である同校の生徒会が中心となって建立運動を行い、1958 年に完成した。広島市内の小中学生が集まって開催してきた「原爆の子の像」の碑前祭を、1998年からは、同生徒会が中心となって運営しており、今年で10 周年を迎えた。また、同生徒会は、「原爆の子の像」に供えられている折り鶴に込められた平和の願いを永遠に引き継ぐことを目的として、募金活動を行い、2000年には、「折り鶴の碑」を校内に建立した。以来、佐々木禎子さんの命日である10月25日の前後には、毎年、平和集会を開催している。(広島市HP)


佐村河内

新垣隆


「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か―新潮
ふだんは頭痛その他の発作で臥せっているはずの人間が、NHK番組や自作の演奏会に登場の際は、何故かいつもお元気なのである。『NHKスペシャル』で取り上げられて以来、佐村河内守の名声と人気はいや増すばかりの天井知らずである。本稿では、テレビ出演以来くすぶる「本当に氏は全聾なのか?」は棚上げするにせよ、音楽自体にマスコミが絶賛するような価値があるのか否かを考えてみた。心ある音楽ファンなら誰もが溜飲の下がるしごく真っ当な批判であろうと自負している。
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0148649
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