マクドナルドで暴れまくる広島県福山市の知能指数が年齢と同じ生徒

日本マクドナルドの福山市内の複数店舗が、店内での迷惑行為を理由に、学校の制服姿での来店などを制限している問題で、広島県公立高校長協会(会長・大下隆司国泰寺高校長)は12月20日、加盟110校に生徒指導や校外での巡回指導の強化を求める要請文を送ったという。要請文は、今回の問題が「店の営業妨害だけでなく、県内の高校生への信用を著しく傷つけた」と強調。冬休みを前に全校集会などを活用し、生徒たちの規範意識の育成を求めている。広島県教委によると、同市内の複数店舗は11月下旬以降、学校の制服姿での来店や店内での飲食を終日または夕方以降、断っている。県立高校の生徒が店内で騒いだり、店長に暴言を吐いたりしたことが要因という。(中国新聞)

以下のような事もあったというが、これらはまさに広島県民性そのものである。いい年した大人でも同じようなものだ。店側は店内の様子をビデオに撮っているだろうから、編集ボカシ無しで全国に公開すべきだろう。

・イスを占拠するなどして大騒ぎ
・4人掛けのイスに2人で座って占有
・大きな声で騒ぐ
・店から注意されたことに腹を立てて不満を言い立てる
・騒いでトレーを投げる
・制服姿で店内を走り回わる
・注文せずに机を占拠
・テーブルやイスなどに名前を書くなど平気で落書き
・店側の対応に怒ってイスを蹴散らして帰る
・スーパーで買ったドリンクを店に持ち込んで飲む
・何も買わずに何時間も居座わる
・タバコを吸う

【広島の食中毒は全国1位】

【広島の食中毒】~10万アクセス記念特集シリーズ4

第4弾は食中毒である。一般的に魚介類が原因となるが、広島では牡蠣である。この牡蠣にあたると強烈である。牡蠣を食べて約1時間後から嘔吐を1時間以上何度も繰り返すことになる。さらに入院することもある。運が悪いとフライにしても、あたるのである。では、それ以降は絶対に口にしないのかと言うと、また食べてしまうのである。

表は全国の都道府県別の食中毒発生数であるが、事件数で順位をつけてみた。2010年度は広島県(ほとんどが広島市内で発生)が事件数158件で全国第1位だった。

参考までに2009年度は、広島県1位(事件数155件、患者数411人)、東京都2位(事件数118件、患者数1877人)。2008年度は、広島県1位(事件数273件、患者数1602人)、東京都2位(事件数106件、患者数1442人)となっており、1位を独占し続けている。(厚生労働省の食中毒統計調査より)

2010年 全国の食中毒発生数

【広島の在日中国人・韓国人・北朝鮮人】

【広島の在日中国人・韓国人・北朝鮮人】~10万アクセス記念特集シリーズ3

第3弾は在日である。広島には在日中国人・韓国人・北朝鮮人が多いと言われるが、全国的にみた場合、どの位置にランクされ、どの程度居るのか。総数では大都市圏で多い傾向になるため、人口1万人当たりの人数(率)で順位をつけてみた。2010年度の広島の在日中国人は14,354人で人口1万人当たりの人数(率)は50人で、全国第14位。韓国・北朝鮮人は、10,532人で人口1万人当たりの人数(率)は、37人で全国第11位だった。広島より上位にランクされている都道府県が意外に多いことが分かる。広島はイメージだけが先行していたようだ。尚、データーは2010年度の総務省の統計を参考にした。

都道府県別中国人登録者数

都道府県別の韓国・北朝鮮人登録者数

【広島・昭和の事件史~死刑】

【広島の死刑史】~10万アクセス記念特集シリーズ2

第2弾は、広島の死刑囚である。近年、広島で死刑を執行された例が以外と少ないことがわかる。被害者遺族が抱く殺人犯罪者への死に対しては、昔も今も衰えることはない。死刑か無期懲役かがいつも裁判で争われる。日本では個人による復讐権がない代わりに、国家が法の番人として裁くわけだが、これが万能でないのが現実である。死刑反対論者は、「死刑によって新たな死者を出すべきではない」「犯罪者には犯罪者の事情がある」などと擁護して、さも正義の味方面をする。しかし、同情に値するような殺人を犯す人間の立場を考えると、早速お世話になるのが人権派弁護士なわけだから、全く否定する理由もない。


1871年(明治4年)8月4日 広島県内の16郡で騒乱事件が起こり、9人が死刑になる。(この年の全国の死刑執行数は1246件以上

1914年10月17日 広島監獄で在監死亡者2727人

1953年5月29日 広島刑務所で長期受刑者5人が担当看守を殺害

1961年4月3日 広島拘置所収監の死刑囚、田村磨輝男がトンネルを掘り、2人で床下から脱走、同日逮捕


秦州くん誘拐殺人事件
1984年2月13日、サラ金などから1200万円という多額の債務を負っていた犯人の津田暎(当時44歳)は、自分がコーチしている少年ソフトボールチームの同市北吉津町の市議・森田泰元さん(当時39歳)の長男・秦州くん(当時9歳)を誘拐した。男(当時44歳)は、度重なる取立てから逃れるために身代金目的の誘拐によって金銭を得ようと、自分が指導している少年野球チームのメンバーである福山市議の森田泰元の長男(当時9歳)を小学校から下校途中にバレンタインデーのチョコレートを買ってあげると誘い出し誘拐した。自動車で市内のデパートなどを連れまわし、児童を福山市郊外の山中にある県道「福山グリーンライン」に駐車中に殺害し、遺体を斜面に遺棄した。その後、児童の自宅に身代金を要求する電話をかけ、指定の銀行口座に15万円を振り込ませた。福山八幡宮の駐車場に留めていた乗用車からキャッシュカードを奪取した犯人は、身代金を現金で引き出すことに成功し、その後追加して1000万円を振り込むように電話したが逆探知に成功した警察により緊急逮捕された。(児童が山中に遺棄された現場にはその後匿名で観音像が設置された)1991年6月11日死刑確定。1998年11月19日死刑執行。

広島タクシー運転手売春婦4人連続殺人事件
1996年9月14日、広島でタクシー運転手をしていた犯人の日高広明(当時34歳)は、一人の女性の他殺体が発見された際に、ラブホテルにタクシーが停まっていたために、そのナンバーチェックから容疑者が割り出された。当初はサラ金からの借金の為に金銭目的で1996年4月18日に援助交際で知り合った16歳の少女を殺害。この時、少女に嘘の身の上話を聞かされ、犯人はつい同情してしまい、金を返せとも言えず、被害者にだまされた形となっていた。その後、死体を遺棄するが、売春婦ならば自分に嫌疑がかけられないと判断した犯人は殺人を繰り返す事になる。8月13日夜に次の23歳の被害者を乗せ、金を渡しホテルでセックス、日付が変わり翌日午前に殺害。9月7日、かつての知り合いの45歳のホステスに金を渡したが初めからセックスする気はなく、すぐに殺害。かつて売春客になった時に金を盗まれたため、その腹いせだった。もはや単純に殺す事自体が目的となり13日夜にホテトル嬢をタクシーに乗せる。ところが、このホテトル嬢はホテルに入ったきり出てこなかった。これが結果的に足がつくきっかけとなった。諦めた犯人は、以前からよく売春客として通っていた32歳の人物を狙う事にする。そして日付が変わって翌日午前にホテルでセックスした後殺害。9月21日に容疑者は逮捕され、その供述から残る二人の遺体も発見された。2000年2月9日に死刑判決、2006年12月25日死刑執行。

広島・岡山独居老人連続強盗殺人事件
2003年9月28日、犯人の片岡清(当時71歳)は、広島県比婆郡東城町粟田(現在の庄原市)でクレジット代金の支払い金を工面しようとして、夜間、強盗目的で91歳女性の村田ミサオさん方に侵入し首を絞めて窒息死させた。その後、犯行に捜査の手が及んだことから自動車内で寝泊まりしながら逃走していたが、同車が故障し、その修理代金に困ったため、2004年12月に岡山県井原市で蕎麦屋店に夜間侵入し、店主の片山広志さん(当時76)を金属製バールで頭部を約20回殴打して殺害し、5万円などが入った財布を奪った。一審では広島の犯行を強盗致死と認定し無期懲役としたが、控訴審および上告審では2件とも強盗殺人であると認定し死刑を言い渡した。2011年3月24日上告棄却、死刑確定。

広島連続保険金殺人事件
1998年10月11日、元生コン商社役員大山清隆被告(当時43歳)は、広島市佐伯区内の駐車場で社長だった養父(当時66)を鈍器で頭を強打した後、車の助手席に乗せて壁に衝突させ、交通事故を装って意識不明の重体にさせた。養父は1999年1月に死亡。大山被告は死亡保険金約7000万円を騙し取った。大山被告は養父に数千万円の借金があったほか、会社名義でも数億円の負債があった。会社は経営破綻しており、精算方針で養父と対立していた。大山被告は養父の甥で、中学生の時に養子になった。養父殺害や保険金を得たことについて妻にうそをつき通せなくなり、殺害を決意。2000年3月1日午後11時40分頃、同区内の自宅で睡眠導入剤入りの茶を飲ませて妻(当時38)を浴槽につけて殺害。翌日、南区宇品海岸の岸壁から海中に遺棄。事故死と偽って死亡保険金299万円を詐取した。2005年4月27日死刑判決

福山市女性強盗殺人事件
1992年3月29日、犯人の男(当時39歳)は犯行当日、知人の男と共謀して福山市の山中に知人で三原市在住の女性(当時87歳)を石で頭を殴った上に絞殺し、現金3000円と預金通帳を奪って約31万円の預金を引き出した。犯人の男は1973年に宇部市で強盗殺人事件を起こして無期懲役判決を受けて服役していたが、1989年に仮出所していた。 2007年4月10日、死刑が確定。

【広島・昭和の事件史~自殺】

【広島の自殺史】~10万アクセス記念特集シリーズ1

広島では過去どんな自殺があったのだろうか。記事は公に報道されたものだけであるため、実際には報道されていないもっと多くの広島県民が自殺しているのだ。知人も数人、問題を抱えて自殺している。自殺記事を見渡すと、ここには広島特有の問題があることも見えてくる。この記事の内容を見て、もっと詳しい内容を知っている人がいたら、コメントをしてほしい。

参考までに、平成22年中の全国の自殺者総数は31,690人(男22,283人、女9,407人 )人口10万人当たりの自殺率24.9。平成22年中の広島県内の自殺者は656人、自殺率22.9である。

1895年 5月1日 陸軍少佐、安満伸愛が広島予備病院にて拳銃自殺

1943年 8月29日 呉海軍工廟造機部、海軍技術中尉、伊藤高が呉水行社にて切腹

1945年 8月8日 朝鮮公族、李偶公御付武官、陸軍大佐、吉成弘が原爆で亡くなった李公の遺体を収容した広島市似島にて右頸動脈を軍刀で切り自殺

1945年 12月31日 小説家、生田葵山が瀬戸内海播磨灘にて入水 代表作「都会」「和蘭皿」

1948年 3月23日 広島のヤクザ山上光治が広島市の果物店にて五右衛門風呂の風呂釜内に入り拳銃自殺、 映画「仁義なき戦い広島死闘編」山中正治のモデル

1949年 3月22日 銀行法違反で業務停止命令を受けた私設銀行、広島利殖銀行社長、沖田忠雄が広島県甲牛町の自宅にて一家6人を絞殺後、首つり自殺

1950年 1月4日 悪魔のキューピーこと広島ヤクザ大西政寛が拳銃自殺、映画「仁義無き戦い」若杉寛のモデル

1958年 9月13日 原爆映画「千羽鶴」主人公彦一のモデル、地後尚彦が広島市柳町の自宅にて首つり自殺

1965年 3月20日 原爆詩人、峠三吉の未亡人、原田和子が広島市翠町の義姉宅にて首つり自殺

1981年 1月29日 広島県福山市立桜丘小学校長、藤井千丈が同校から約2キロ離れた山道に停めた自家用車内にて包丁で右手首を切り自殺

1981年 1月31日 広島県豊田郡本郷町立北方小学校長、平野正宏が職員朝礼前に同校内教育相談室内で、カッターナイフで手と首を切り自殺

1981年 11月26日 広島県教育委員会学校管理課長、赤木利彦が首つり自殺(多発する広島県内の教員自殺事件の現場指導を担当していた )

1982年 2月11日 広島県山県郡筒賀村立筒賀小学校教頭、小野昭三が同郡豊平町の自宅土蔵にて首つり自殺

1989年 4月15日 広島県立農業試験場作物部長で除草剤の専門家、森康明が中国四川省成都市のホテルで首つり自殺

1990年 3月20日 広島県宮島町長有本幹雄が宮島町大町の自宅2階居間にて包丁で左胸を刺して自殺

1990年 3月30日 小6の教え子に猥褻行為を繰り返し、発覚後殺害した広島県豊田郡安浦町安登町立安登小学校教師河内武志が拘置中の広島県警西条署1階留置場にて壁に頭をぶつけ舌を噛み自殺(未遂)

http://hiroshima999.blog134.fc2.com/blog-entry-24.html

1994年 9月30日 オタフクソースに入社半年後、実質的な製造部門である関連会社イシモト食品に転籍した社員、木谷公治がイシモト食品工場内で首つり自殺、遺族が過労自殺としてオタフクソースらを相手取り損害賠償訴訟を起こしていた( オタフクソース過労自殺事件)

1996年 4月16日 運輸省海上技術安全局検査測度課放射性物質係長、宮口修が広島市南区上大須賀町の雑居ビル屋上から飛び降り自殺

1998年 1月29日 中国遼寧省出身の建設会社実習生、曹士春が広島県庄原市平和町の路上で近所の小学校六年生男子を刺殺後、首を切り自殺

1998年 2月2日 日本道路公団中国支社長、佐々木利英が広島市南区比治山公園内、市現代美術館西側展望台手すりに電気コードをかけ首つり自殺

1999年 2月28日 広島県立世羅高校校長、石川敏浩が広島県御調町三郎丸の自宅物置にて首つり自殺

2001年 6月4日 広島県世羅町の教師一家神隠し事件が発生、2002年9月7日同町京丸「京丸ダム」湖底から一家の車と遺体が発見される

2002年 11月6日 広島県川尻町助役、八谷俊二が同県庄原市小用町の山中にて首つり自殺、同県第三セクター広島ソフトウェアセンターの業務上横領事件で県警が任意事情聴取を求めていた

2003年 3月9日 広島県尾道市立高須小学校長、慶徳和宏が同校校舎西側非常階段にて首つり自殺、広島銀行東京支店副支店長から民間人校長となっていた

2003年 7月4日 広島県尾道市教育委員会次長、山岡将吉が広島県御調町市の林道に停めた乗用車内にて首つり自殺

2005年 5月24日 元広島大学原爆放射線医科学研究所ゲノム疾患治療研究部門教授、峠哲哉が広島市西区の自宅にて首つり自殺、同研の医師を北海道の医療法人に派遣する見返りに計約2300万円収賄し公判中だった(初公判で「社会及び関係者に迷惑をおかけし反省している」と起訴事実を認め謝罪、保釈されていた)

2005年10月 外国為替証拠金の取引仲介業者「ファーストクラブ」が顧客から現金をだまし取った事件で、組織犯罪処罰法違反の罪に問われた同社元専務長尾和久被告(55)=広島市=が広島県内の山中で自殺。遺書が見つかっていた。長尾被告は同社元会長山田恵男被告(63)=同罪で起訴=らと共謀し、2001~03年に高齢者ら計10人に「確実にもうかる」などと持ちかけ、計約1億4000万円をだまし取った。

2006年 10月4日 広島県江田島市議会議員、元沖美町議会議員、大越保之が江田島市沖美町高祖、自宅近くの登山道脇にて首つり自殺、旧沖美町の産廃処分場建設を巡る汚職事件に絡み、任意事情聴取中だった

2007年 6月19日 広島県江田島市土木建築部建設課主任が自宅にて首つり自殺、市土地開発公社の公金約500万円着服をわびる遺書が見つかる

2007年 10月10日 呉農業協同組合昭和支店長が東広島市にて乗用車で瀬戸内海へ飛び込み自殺、顧客の貯金など4000万円以上を横領していた

2010年 2月7日 広島ガス開発元社長山内晶が広島市南区皆実町2丁目のショッピングセンター駐車場に停めた自家用車内で練炭自殺

2010年 4月13日 中国電力電源事業本部長、島根原発点検漏れ問題の緊急対策本部原因分析チーム責任者が松江市内ホテル10階から飛び降り自殺

誰も知らない広島県民のエイズ感染・発症者累計は200人

広島県内で、今年のエイズの発症者が11月末までに8人となり、過去最多だった昨年(9人)に迫っているという。一方で検査件数の減少に歯止めがかからず、県は「薬の発達もあり、感染が早く分かれば発症は防げる」と検査を受けるよう呼び掛けている。県によると、11月末までにエイズウイルス(HIV)への感染が発覚したのは17人で、20~30代の若者が目立つという。発症者との合計は25人と、2006年の計11人から5年間で2倍以上に増えた。県内の感染・発症者の累計は約200人に上る。一方で、保健所などでの検査件数は09年から減少が続いている。11年は9月末現在で2014件と、昨年(2755件)並みか、下回る見込みという。県健康対策課は「エイズ自体への関心が低くなっており、発症してから気付く人が増えている」と危惧する。(中国新聞)

虐待好き広島のNPO法人みます会が指定業者取消し処分

11月8日、NPO法人みます会(広島市安佐南区)が運営する障害者の作業所の利用者を虐待したとして、広島市から指定事業者の取り消し通知を受けていたという。同会は「虐待の事実はない」とする一方、処分確定前の6日に市へ事業廃止届を提出したという。同会は同区長楽寺でパンや総菜を製造・販売する作業所2カ所を運営。11月1日現在、24人が通っている。関係者によると市は9月以降、施設で虐待が行われているとの通報を基に同会を立ち入り調査。今井みき理事長や理事長の家族である職員が日常的に「死んでしまえ」などと利用者に暴言を吐いていたと判断した。さらに平手でたたくなど身体的虐待や介護給付費の不正受給もあったとして市は11月30日、同会に処分内容を文書で通知。7日に手続きの一環で聴聞会を予定していた。市健康福祉局は「虐待に関し多くの証言が得られ、最も重い事業者取り消し処分とする方針を固めていた」とする。今井理事長は「虐待していないし不正請求の覚えもない」と反論。事業廃止を届け出た理由を「市はこちらの言い分を聞く気がない。闘っても無意味だから」と説明した。(中国新聞)

みます会みどりの館

みます会

【広島・昭和の事件史~殺人・自殺・死体遺棄関連】

広島では、昭和時代にいったいどんな事件があったのだろうか。すでに他のサイトでも見ることができるが、改めてここで事件種別にまとめてみた。「広島昭和の事件史」の記事内容については全て他サイトからの転載である。


山本老事件
昭和3年11月24日、広島県比婆郡下高野山村(現在の庄原市高野町)で、農業の主婦(当時56)が、飯櫃に頭から突っ込んだ状態で死亡しているのを発見された。彼女の主治医は脳溢血による事故死であると診断したが、警察の嘱託医は右手で首を絞めたことによる扼殺と断定。警察は、主婦の家を家督相続していた養子の男性(当時29)を尊属殺人で連行した。当時の捜査機関は2日2晩の拷問を加えた上に被疑者に白紙の供述調書に署名捺印をさせ、起訴した。1930年、広島地方裁判所及び広島控訴院はいずれも無期懲役の判決を言い渡した。1931年には大審院が上告を棄却し、被告人の無期懲役が確定した。

西条町でバラバラ殺人
昭和6年7月21日、広島県賀茂郡下三永村福成寺山中で小学校の終業式を終えて雨の中を帰宅途中の同村に住む杉井敏数(当時8)が開拓業の上高八郎(当時40)に絞殺され、草刈鎌でバラバラにされた。上高は事件より20日近くして逮捕された。上高は妻の父が癩病患者で、雇い入れた朝鮮人から俗信で子供の肉が効くというので杉井の手足を持ち帰って黒焼きにし、柏餅と一緒に届けていた。

大津野村で強盗殺人事件
昭和21年12月23日、広島県深安郡大津野村(現在の福山市大門町)にある岡山県との県境の近い槇ヶ峠の頂上付近で男性2人の惨殺遺体が発見された。2人は胸部や脚を小銃で打ち抜かれ、顔面がめった打ちにされた上に、背負っていたリュックサックも切り裂かれていた。被害者は、広島県内の豊田郡大長村(現在の呉市豊町)の柑橘出荷組合の理事2人(共に当時49歳)で、12月18日に岡山県小田郡笠岡町(現在の笠岡市)に服地の購入を斡旋してやると称する5人組の案内で、服地の代金34万円を持参していたことが判明した。犯人グループと2人は山陽本線笠岡駅の一つ手前の大門駅で下車し、人里はなれた山道で、5人は犯人に及んだという。

金比羅丸事件
昭和21年8月23日、広島県沼隈郡鞆町(現在の福山市鞆町)の沖合いの燧灘で貨物船が炎上しているのが発見された。消防団と警察は漁船などで急行し消火活動を行ったが、貨物船は沈没こそ免れたが全焼した。消火活動の際に同船から甲板員が救助されたが、船長と機関長は射殺されていた。金比羅丸は広島県豊田郡大長村(現在の呉市豊町大長)の個人所有の貨物船で、大長村をミカンと青物商親子の5人で8月21日に出発した。そして翌日に岡山県笠岡町(現在の笠岡市)でミカンと青物商親子をおろして8月23日未明に帰途についたが、その際3人の男に便乗させて欲しいと頼まれ同乗を許した。しかし、午前6時ごろに備後灘で3人組が豹変し、船長と機関長を射殺し、甲板員は船底に逃げ込んで身を隠すことに成功したが、3人は船に放火して貨物船の伝馬船で逃走したという。鞆の浦の仙酔島に金比羅丸の伝馬船が乗り捨てられており、そこには犯人が脱ぎ捨てたワイシャツがあったが、金比羅丸は灰になっており犯人に繋がる証拠が殆どなくなっており、事件は迷宮入りになった。

事件発生から2年が経過した昭和23年11月になって金比羅丸事件の再捜査が大規模に展開された。昭和24年1月になって「大阪市在住の甲が主犯で、共犯は乙と丙である」という投書が捜査本部にあった。そこで大阪にいる甲の身辺調査をしたところ三人にかつて雇用関係があり甲は拳銃二丁持っていた事が判明した。4月に3人を検挙した。事件前の昭和21年3月に、甲は貨物船を購入し米ソ両国に分割占領されている朝鮮半島と密貿易することを計画、乙を船長、丙を炊事係として雇用した。しかし最初の航海で貨物船が故障し売却せざるを得なくなったため、3人は生活に困窮するようになった。

そのため3人は広島県三原市方面で綿布を入手する段取りをつけ、その綿布を大阪の闇ブローカーに売却を仲介する契約をとりつけた。しかし入手先が摘発を受け取引不能になったことから、取引を装ってブローカーから金銭を奪う計画に変更し、同じ広島県の因島にあると船で誘い出して途中で巻き上げる計画をした。そのためブローカーを誘い出す舞台装置として船を捜していたところ、笠岡にいた金比羅丸に目をつけたという。そして船を奪う為に船長と機関長を射殺したが、両人の断末魔の形相に怖気付いたことから、計画遂行を断念し放火して逃亡した。なお一審の広島地方裁判所尾道支部は1951年に甲に死刑、1952年1月に乙に無期懲役、丙に懲役10年を言い渡している。

母妹殺害
昭和21年9月16日、広島県内で無職の邑神一行(当時19)は、母親(当時49)と妹(当時16)を就寝中に棒で殴打して殺害。遺体を井戸の中に遺棄した。邑神は、会社の金を使い込んで解雇され実家に戻った。だが仕事もせず遊んでばかりで、母親等の内職で辛うじて生活している状況だった。そこで、妹から罵倒されて殺害を計画したのだった。一審は無期懲役だったが、二審で死刑判決。最高裁で邑神の上告が棄却され死刑が確定した。

加計町強盗殺人
昭和22年7月、米田実(当時30)と岡崎保雄(当時31)の2人は、広島県山県郡加計町の農家に強盗目的で侵入。家族3人を殺害して金員を奪った。犯行当日、米田は岡崎に借金の催促をしたが、岡崎は米田を騙して強盗の手伝いをさせるため被害者宅に連れて行き犯行におよんだ。昭和37年10月、最高裁は2人の上告を棄却して死刑が確定。ところが、米田は「殺したのは自分ではない」と訴え再審請求をした。一方の岡崎は「米田に手伝わないと殺すと脅して被害者を縛った。実際に自分一人が3人を殺害した。米田は関係ない」と主張したが、結局再審請求は却下された。

両親殺害
昭和23年6月11日、広島県加茂郡の山岡昭二(仮名、当時18)は、自宅で入浴中の母親(当時53)に「よう虐めてくれたのう」と匕首で刺し殺した。更に、父親(当時57)の帰りを待って、玄関で同様に殺害した。山岡は、昭和21年に中学校を卒業して小学校の助教員になった。山岡の父親は元将校で1人息子の山岡に対して躾が厳しく、日頃からそのことを恨んでいた。事件のきっかけは、同じ教員の女性と深い関係となり妊娠させたことから父親に殴られ折檻をうけたことがきっかけだった。昭和25年2月21日、最高裁で死刑が確定したが、その後恩赦で無期懲役に減刑された。

呉の高校生が決闘で刺殺
昭和28年3月1日、広島県呉市宮原町の旧海軍練兵場で介添人や助っ人ら7人を引き連れて来た市立呉港高の男子生徒と、同じく音戸高生ら6人を引き連れて来た県立宮原高2年の男子生徒が決闘を行い、呉港高の若宮伸(当時17)が心臓を刺されて即死、ほか3人が負傷した。2月27日午後5時に宮原高2年の男子生徒が友人2人を連れて呉港高の男子生徒に決闘を申し込んでいたもので、決闘に参加した高校生11人と無職の少年(当時17)の計12人が逮捕された。

八本松の山中で白骨死体
昭和36年3月12日午前10時頃、広島県賀茂郡八本松町篠字田房の山中で、植林中の者が白骨死体を発見。西条署で検視の結果、慎重1メートル62センチ、24、5歳前後の男と分かっただけで身元不明。

大崎上島の防空壕で中学生7人練炭ガス中毒死
昭和38年3月16日、広島県の大崎上島北側の豊田郡大崎町大串の古い防空壕で、3月15日に町立西野中を卒業したばかりの15歳(当時)の少年6人、14歳(当時)の少年1人が死んでいるのが見つかった。3月15日午後7時に練炭火鉢と酒を持ち込み7人はすき焼きパーティをしていたらしく、午後9時から10時までに一酸化炭素中毒で死んだものと思われた。0.36リットル入りの清酒のガラス瓶とワイン1.8リットル入りのガラス瓶が空になって転がっており、酔ってガスがまわるのがわからなかったらしい。7人のうち1人が大阪へ就職する予定で、6人は県立尾道北高へ進学する事になっており送別会のつもりだったが、家の中では酒は飲めないため1人の少年の家の近くの30mの場所にある防空壕に入り込んで宴会となったもの。防空壕は幅1m、高さ1.2m、奥行き8.6mだった。

呉の漁船で少年5人シンナー中毒死
昭和42年6月13日、広島県呉市阿賀町大入の旧海軍魚雷発射場の月星工業内湾桟橋に船首を突っ込んでいた漁船の中から16歳少年ら5人の死体が見つかった。午前6時、この漁船は音戸町の漁民桟橋から消えているのを所有者(当時61)が探していて、発見したところ中に5人の少年の変死体を見つけたものだった。当初、少年の死因はよくわからなかったがシンナー遊びによる中毒死と判明した。この頃はまだシンナー遊びについてほとんど世間には知られていなかった事から、シンナー中毒死という側面よりも変死という部分が強調された報道となった。

大竹市の瀬戸内海で宣教師家族ら7人水死
昭和42年12月9日、広島県大竹市阿多田島海水浴場に米海兵隊員が泳ぎ着き助けを求めた。米兵は3時間かけてモーターボート福音丸が転覆、漂流しているところから泳いで来たという。福音丸では他の米兵1人と岩国のバイブル宣教師教会の米人牧師(当時33)の1女3男の子供4人の計5人が死んでおり、午前6時40分には牧師とその妻(当時29)、さらにもう1人の米兵が救出され、教会寄宿の帝人岩国工場の女性従業員(当時21)が死んでいるのが見つかり死者は6人となった。一行は12月8日午後5時35分、米軍岩国基地船着場からボートで出発して8km離れた阿多田島(800戸)にキリスト教の伝道に向かったものの、午後6時にボートが浸水して12月9日午前0時に転覆したため船底にしがみついて助けを待っていたが、午後11時の岩国の気温は-4.7度だった。12月9日午後2時30分、東洋紡岩国工場の男性従業員(当時32)が死体で見つかり死者は7人となった。

瀬戸内シージャック犯を狙撃・射殺
昭和45年5月12日午後2時、広島市尾長町からライフルを持った2人の男がいると通報が入った。2人は、5月10日に福岡市の柳小路で車を盗み、5月11日に山口県で警官を刺した3人組のうち、その場で逮捕されずに逃走した2人だった。警察は、午後2時30分に広島県安芸郡府中町のキリンビール工場前の県道で2人を発見。広島東署大州派出所の巡査ら2人が近づき、ライフル2人組のうちの1人、大工(当時19)を逮捕したが、もう1人の男、川藤展久(当時20)が巡査(当時23)のピストルを奪い、通りかかった男性店員(当時20)の運転する軽トラックに乗り込んだ。そのまま川藤は男性店員を脅しながら「キャラバンに行け」と広島の繁華街にあるバーの名前を挙げ、広島市立町の同じビルにある住吉鉄砲店に押し入り、店長の長男(当時22)にピストルを突きつけてライフルなど3挺、実弾80発、散弾250発を奪い取った。さらに川藤は店の前を通ったかもめタクシーに乗り込み、広島市宇品町1丁目の広島港桟橋で下車、午後4時30分に待合室に乱入した。川藤は、今治行き定期汽船「ぷりんす号」丸の事務長(当時57)にピストルを突きつけて船に乗り込んだ。「ぷりんす号」には乗客33人、乗務員11人が乗っており、川藤にシージャックされたまま午後5時20分に出航、川藤は岸壁に発砲して広島南署の警部補(当時46)にけがを負わせた。午後9時43分には愛媛県松山市高浜町の松山観光港第2桟橋に入港、川藤は岸壁に向けて発砲を繰り返して船長を交渉役として「代わりの船を用意するか、給油するか」と要求、要求に応じれば人質を解放するとしたため、愛媛県警では「ぷりんす号」に給油を行い、5月13日午前0時50分、8時間ぶりに乗客ら37人が解放された。乗務員7人はそのまま人質となり、「ぷりんす号」は松山を出航、午前9時前に広島港桟橋に逆戻りした。川藤はまたも岸壁に向けて発砲を繰り返すので、警察では川藤の父と姉を呼び寄せて200m離れた巡視船からハンドマイクで呼びかけるが、川藤は巡視船に向けて発砲した。午前9時52分、大阪府警の巡査部長が「ぷりんす号」から身を乗り出して左手にライフルを持っていた川藤を80m離れた場所からライフルで狙撃したところ、1発の発砲で川藤に命中し、川藤は左胸に弾が貫通して午前11時25分に死亡した。テレビカメラが始終を撮影しており、射殺のシーンはテレビで何度も流れた。この射撃で川藤が倒れる際には広島港の2000人の群衆は歓声を上げたが、「ぷりんす号」乗組員には川藤に同情する声もあった。警察側の犯人負傷を狙ったたった1回の発砲でシージャック犯人が射殺されるという予期せざる事態だったが、川藤は鉄砲店からライフルを奪って116発も発砲して民間人1人と警官1人にけがを負わせ、民間人1人と警官2人にガラス破片でけがを負わせていた。川藤は倉敷の飲食店経営者の三男で、男5人女1人の兄弟だった。中1で家出、昭和42年に尾道で工員をしていた際に空き巣で捕まっている。昭和45年4月30日には福岡市西堅粕4丁目の花見荘で部屋を借りていた。その際に年増女性と小さい子供も一緒にいたが、すぐにどこかへ去ったという。5月15日、札幌弁護士会の入江五郎弁護士(44)、下坂浩介弁護士(33)が狙撃を指揮した広島県警本部長と、実際に狙撃手となった大阪府警巡査部長を殺人などで広島地検に告発したのである。さらに5月16日、社会党広島県本部は「見せしめのための射殺の意図が濃厚だ」などと広島県警本部長に抗議した。世論の大多数は射殺やむなしという反応だったものの、知識人と称される人々や一部マスコミ、左翼関係者らはライフル魔を被害者扱いして警察を殺人鬼呼ばわりしたという。これが後に連合赤軍の浅間山荘篭城事件に際して警察側が発砲出来ず、犯人からの銃撃に警官や民間人多数が死傷するという出来事の伏線となったと言われている。

呉の中学生が三瓶山で同級生に殺害される
昭和47年12月3日、島根県大田市の国立公園三瓶山で、市内の中学3年の男子生徒(当時15)が、一緒にいた呉観光開発会社職員長男の志学中3年の原田一志(当時15)が猟銃を持った見知らぬ男に撃たれて病院へ連れて行くと車に乗せられたまま誘拐されたと訴え出た。警察で取り調べたところ午後9時40分、誘拐などは狂言でこの男子生徒は友人を登山ナイフで刺殺した事を自供、午後11時40分、麓の雑木林の雪の中から友人の死体が見つけられた。2人はスキー仲間で小学生時代には同級生だったが、加害者の男子生徒の方が他地区へ引っ越して離れ離れとなった。しかし2人の父が大田市スキークラブの準指導員だった関係から2人は県大会でライバル同士で、いつも原田が優勝して男子生徒は2位だったという。男子生徒の父は小学校の教師をしており、弟も入れての4人家族で平穏な家庭環境であったという。

呉の鉄工員がホストの首絞める
昭和51年6月10日、八海事件の被告、吉岡晃(当時48)が5月24日午前1時に自宅に連れ込んだホスト(当時27)と口論になり、首を絞めて3週間のけがを負わせたとして殺人未遂で逮捕された。吉岡は八海事件で昭和28年9月に無期懲役となり、昭和46年9月に広島刑務所を仮出所、広島の呉で鉄工場の工員をしていた。

宮島のホテルで文通相手を殺害
昭和52年6月24日、広島県佐伯郡宮島町のGホテル5階の部屋で、山形市門伝に住む山形農協職員の高野利子(当時18)が布団の上で全裸になり、ホテルの浴室の腰紐で二重に両手足も縛られて絞殺されているのが見つかった。この部屋に泊まっていた広島県三原市西宮町に住む工員、実光(当時20)が午前8時30分、2.2km離れた杉之浦で雨の中、半裸で歩いているのを逮捕された。高野は農協の研修旅行で同僚28人と一緒に6月23日午後にホテルに到着、2階の大広間で宴会をしていたが午後9時、同僚に5階の部屋にペンフレンドが泊まっているから会いに行くと言い残したまま行方不明になっていた。高野は3月に就職したばかりで、農協に入った後に加害者と文通を始めたという。実光は6月23日午後5時30分に1人で宿泊、午後9時30分、部屋に高野が来たので雑談、レイプをしようと襟首を絞めて気絶させて暴行し、さらに首を絞めて殺した後、午後11時30分、エレベーターで1階へ下り、大浴場の窓から外へ出たという。上着は雨の中、捨てたという。これまでに手紙のやり取りは3回あった。実光は昭和50年11月から1年間、レイプで少年院に入っていた前歴があった。

三菱銀行人質事件
昭和54年1月26日、大阪府大阪市住吉区万代二丁目の三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質に立てこもった事件。詳細は下記リンク参照。
http://hiroshima999.blog134.fc2.com/blog-entry-123.html

前尾道市長夫妻が殺される
昭和55年2月9日、広島県尾道市浦崎町の前尾道市長、佐藤勲(当時52)の自宅2階寝室で佐藤とその妻(当時46)が血まみれで死んでいるのが見つかった。2人は死後7時間から8時間、刃物で滅多刺しにされており、電話線が切られて物色の跡がない事から殺されたものと思われた。作業服の男2人が現場近くで目撃されており犯人ではないかと疑われた。前市長夫妻は次女(当時23)と3人暮らしだった。尾道市発注の向東町学校給食共同調理場の建設請負工事選定などで便宜をはかった謝礼として前市長は市長在任時、業者4人から昭和52年9月から昭和53年12月の間に三百数十万円を受け取っており、昭和54年3月26日に逮捕されていた。

福山市で小学生を誘拐殺人
昭和59年2月13日、福山市議で大和化学工業専務(当時39)の長男で福山市立樹徳小3年の森田泰州(当時8)が下校途中、行方不明になり、午後7時50分、家に「キャッシュカードの暗証番号を教えろ」と脅迫電話が入った。午後8時26分、市議の妻(当時36)は車に捜査員を乗せて指定された福山城裏の公衆トイレに子供の下着を持って出向いた。すると電話の通りに目印として犯人により子供の紺の野球帽が置かれていた。その後、犯人からは「警察がいる」と電話が入り、2月14日午前0時2分に4回目の電話で福山八幡宮前の車の上に鞄が置いてあるのでそこに金を入れるように指示、さらに市議の妻に自転車で現地まで来るように言った。ところが犯人は現れなかった。午前3時33分に7回目の電話が入り、午前3時55分、再び市議の妻は15万円と広島銀行のカードを風呂敷に包んで持参した。すると白のファミリアの男が市議の妻が持参したカードなどを入れた鞄を持ち逃げ、午前4時15分に8回目の電話が入り、通帳に1000万円を入金しておくように指示したがこれが逆探知され、福山市沖野上の公衆電話から犯人がかけている事がわかった。  
午前4時25分、白いファミリアに乗った男が連行されて午前7時15分に逮捕された。男は文房具店経営の津田暎(当時44)で、昭和54年からソフトボールチームのコーチをしておりメンバーだった泰州とは顔見知りだった。昭和57年からは泰州の父の市議の後援会にも入っていた。津田は下校途中の泰州に「バレンタインのチョコレートを貰ったか」と尋ね、泰州が「貰っていない」と答えると「買ってやろう」と泰州を車に乗せた。東深津町の天満屋デパートでチョコレートを買い与え、津田は鞆町の福山グリーンラインをドライブ、午後6時30分、泰州が泣き出したので展望台先の広場に車を止めてネクタイで絞殺した。初めから殺すつもりだったという。

福山市の雑木林で死体が見つかる
昭和59年2月15日、広島県沼隈郡沼隈町能登原の雑木林から泰州の死体が見つかった。福山グリーンラインの後山展望台から南1kmの瀬戸内海を見下ろす駐車場から6、7m下の場所だった。泰州の父は誠友会に属し2期目で、自民党の佐藤守良衆院議員の直系だった。津田はPTA役員もしていたが、麻雀狂いでサラ金8社に120万円、信販会社に265万円、国民金融公庫に300万円の借金があった。昭和56年には福山葦陽高の同窓会会計をした際に津田は300万円のチケットの3分の1を着服した騒ぎもあった。

山陽新幹線から飛び降り自殺
昭和61年4月26日、広島県尾道市西藤町の山陽新幹線福山-三原間で上りの博多発東京行きひかり102号が急停車し、10両目後部左側のドア非常コックが開いているのが見つかった。乗客の飛び降りと思われ、馬場トンネル東出口で群馬県渋川市の会社員男性(当時48)の死体が発見された。3月から広島県大竹市で勤務していたが4月25日に退職したばかりで、群馬へ戻るところだったという。


広島県職員がおいを殺害
平成4年7月8日午後8時40分頃、呉市天応西条3丁目の畑で同所会社員浜崎敦さん(当時21)がナイフで刺されていると通報があった。呉署員が現場にいた隣の広島県土木建築部道路維持課技術員中佐古文相容疑者(当時41)を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。浜崎さんの死亡が確認されたため、殺人容疑に切り替えて同容疑者を調べていた。調べでは、中佐古容疑者は午後8時35分頃、自宅横の畑でおいの浜崎さんを果物ナイフ(刃渡り15センチ)で刺した疑い。浜崎さんの傷は心臓に達し、ほぼ即死状態だった。中佐古容疑者は調べに対し「前日から浜崎さんの方が騒がしかった。今日、浜崎さんを訪ねたところ、殴られそうになったので、自宅からナイフを持ち出し刺してしまった」と自供した。犯行当時、中佐古容疑者は酒を飲んでいた。浜崎さんの母親と中佐古容疑者は姉弟で畑を隔てて隣に住んでいる。付近住民の話では平素は仲が良さそうに見えたという。(1992/ 中国新聞)

【広島・昭和の事件史~「仁義なき戦い」やくざ関連】

山上光治が自殺
昭和23年3月23日、病気療養のため刑務所を出て行方不明となっていた無期刑囚、山上光治(当時26)が広島市猿猴橋町の日劇で映画を観ているのを警官2人が発見、山上は映画館を出て10m先の酒類配給所の好川義兌(当時57)方に侵入して風呂釜に立て篭もり、武装警官二十数人に包囲された。映画終了と退勤時間が重なって数千人の人だかりとなり、逃走不可能と知った山上は拳銃で自ら額を撃って自殺した。山上は呉で徴用工をしていた19歳の時に広島市胡町で遊び人の喧嘩の仲裁に入って相手を刺殺して1年6ヶ月服役、昭和21年4月中旬には広島市旭町の元広島被服廠倉庫を他の仲間と襲って巡査を射殺して逮捕され服役していたが、同年11月4日に刑執行停止となり病院に送られていた。その後、行方不明となり昨2月18日夜、広島市猿猴橋町の岡組事務所前で菅重雄(当時33)を射殺、1月5日夜には比治山町の吉川方で山口芳徳(当時21)を射殺して逃走していた。山上は昭和48年に公開された映画「仁義なき戦い 広島死闘編」の主役、北大路欣也演じる山中正治のモデルとなった。

大西政寛が自殺
昭和25年1月4日、広島県呉市和庄通りの高日神社付近で海岸通り人夫の大西政寛(当時26)が大西輝吉(当時24)と喧嘩しピストルで射殺した。大西政寛は知人宅に潜伏したが1月18日午前3時、呉市武装警官40人に包囲され、ピストルを乱射して捜査係長の数田理喜夫警部補(当時35)、鞆井清刑事(当時27)を殺害して自分も口中にピストルを撃ち自殺を遂げた。大西政寛は映画「仁義なき戦い」で梅宮辰夫演じた若杉のモデルとなった人物である。

広島「仁義なき戦い」が全国展開
昭和28年1月19日、後に映画の「仁義なき戦い」で有名になった広島戦争が東京でも詳細が報道されたという。「仁義なき戦い」は、広島市松原町と赤線区域の弥生町一帯を舞台にした村上組、岡組の対立である。下柳町の土建業、岡敏夫(当時40)、松原町のテキヤ、村上正明(当時33)のそれぞれ配下によって戦後に既に30件の傷害事件が起きていた。昨11月6日の村上狙撃事件から激化したという。広島戦争の背景には呉、岩国の進駐軍基地にいる5000人の夜の女を通じて朝鮮戦争帰りの兵士から銃が広島市の暴力団に流れた事や、昨10月に広島市に競輪場が出来て警備利権をめぐる主導権争いなどもあった。ピストルは新型1挺で20から50発の弾丸付きで8000円から1万円、レンコン型1挺で同じく4000円から5000円だった。発砲事件に関与していたのはほとんどが30歳以上の組員だったという。11月25日朝には神戸市東灘区東明町7丁目の情婦の家で、村上組二代目村上正明がピストル1挺を所持したまま逮捕された。 

共政会幹部が射殺される
昭和45年11月18日、共政会の原田昭三副会長(当時43)ら5人の乗った車が大阪の天王寺署に横付けとなり、「撃たれた」と訴えて中の3人が血まみれとなり、原田副会長が死亡した。車は浅野組組長(当時47)の運転で大阪市西成区今池町の松田組へ山田新会長襲名披露の挨拶に行く途中で、神戸の忠成会幹事長の衣笠組組長(当時34)がタクシーで先導して道案内しており、今池町59の南海電鉄平野線今池1号踏切北側の新紀州街道で道路にいた男にピストルを乱射されたという。男は近くの車で逃走したが、この車は共政会俠道会高橋組幹部の車だった。共政会は山田久理事長(当時41)の三代目会長就任をめぐり内部で争いが起きていた。11月24日に山田新会長の襲名披露が宮島で行われる予定で、副会長は原田、理事長には傘下の十一会会長の竹野博士(当時36)が就任予定だった。 昭和39年に山村組、山口組(後の十一会)、村上組など7組織が合併して共政会を結成、旧本多会の系列に入り、山口組打越会とは対立関係にあったが、警察に根こそぎ逮捕されて山田だけが幹部では逮捕されずに残り、配下の組員を維持していた。この一連の動きは「仁義なき戦い」のモデルとなっている。

【広島・昭和の事件史~ボクシング】

「協栄ジム」金平会長の薬物オレンジ疑惑
昭和57年3月4日発売の「週刊文春」3月11日号は「金平会長は薬物投入の仕掛人!」「カンムリワシ具志堅用高は『汚れた英雄』だった」と、ボクシングの協栄ジムの金平正紀会長(広島出身、当時48)が協栄ジムのWBAJフライ級チャンピオンの渡嘉敷勝男の対戦相手に試合前、薬物入りオレンジを贈ったとの疑惑を報じた。渡嘉敷の世界初挑戦へのステップとなる昭和56年6月2日の東京の後楽園ホールで行われた世界同級3位の韓国の金龍鉉戦の前日、金平会長はオレンジ6個に薬物を注射してホテルサトーに泊まっていた金に差し入れ、試食した金のトレーナーが下痢をして金は食べなかったというもの。これを受けて昭和57年3月5日、金平会長は協栄ジム会長を辞任、プロモーター、オーナーのライセンスも日本ボクシングコミッションに返上した。金平は昭和56年7月13日に経済界が発行した「強く賢い子に マンツーマン教育 親は子供の名トレーナーであれ」で、海外での例として「食事の中に下剤を混入されるなんてことはしょっちゅうだ」としている。