広島県出身の社長は地元志向で郷土愛が強いため、大都市圏の人間に対して反発心が強い

9月15日、東京商工リサーチが全国210万社の社長の出身地を調査したことによると、広島県出身の社長の人数は全国で7番目に多く、その85%以上が地元、広島の会社で社長を務めており、この割合は全国で4番目に高い数字であるということがわかったという。今年7月1日現在、広島県出身の社長は2万8196人、全国で7番目に多い数で、このうち地元、広島の企業で社長を務める割合は85.76%。全国平均の79.1%を大きく上回り沖縄、愛知、北海道に次いで全国で4番目に高い割合。東京商工リサーチでは、広島は製造業の企業が多いことに加え、郷土愛が強く東京や大阪など大都市圏に対する反発心が強いためではないかと分析しているという。

なるほど、郷土愛か。だから広島県外から来た人間に対して非情なまでに冷酷・排他的なのだ。わざわざ楽しみにして広島に来た人間に対しても躊躇なくコケにし、侮辱し、ボロクソに言ってしまうのだ。その光景は醜いとしか言わざるを得ないが、広島ではこれが普通であり、常識なのだ。



広島企業1

広島企業2


原子爆弾を2発落とされても、永久にアメリカに対して謝罪し続ける日本 「非人道的扱いにおわび」岡田外相、元米兵捕虜に公式謝罪

岡田克也外相は13日昼、太平洋戦争中に日本軍の捕虜となった元米兵レスター・テニー氏ら6人と外務省で面会し、「皆さんが非人道的扱いを受けたことに対し、日本政府を代表して心からおわびする」と公式に謝罪した。テニー氏は「われわれの存在を認め、おわびしてほしいと求めてきた。このような機会を歓迎する」と語ったという。

テニー氏らはフィリピン戦線で捕虜となり、九州の炭鉱などで強制労働をさせられた。テニー氏は「われわれを働かせた日本企業は65年間沈黙を保ち、おわびの言葉もない。これは侮辱だ」と批判した。元捕虜とその家族は今回、政府による初の招待で来日。19日までの滞在中、交流行事への参加を予定している。(時事通信)

原爆投下による大量殺人に対するアメリカ政府の謝罪はないが、わずか6人のアメリカ人捕虜だった人間に謝罪しなければならない日本政府。アメリカによって牙を抜かれた日本だから反論出来ない。そして謝罪が好きな日本。

岡田外相謝罪
 

広島県出身者が犯した戦後最悪の凶悪事件【三菱銀行人質立てこもり強盗殺人事件 1979年】

1979年1月26日午後2時30分頃、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に一人の男が入ってきた。ゴルフバックから猟銃を取り出して構え、猟銃を一発撃ちながら乱入。「みんな伏せろ!」と怒鳴り、同時に天井に向けて2発発射した。行内のカウンターで「金を出せ、出さんと殺すぞ! 10、数えるうちに5000万円出せ!」と要求。これを見た行員の萩尾博さん(当時20歳)は警察への非常電話に手をかけた途端、梅川は躊躇することなく猟銃を撃ち射殺した。
さらにカウンター内でしゃがみ込んでいた行員男性(26)にも散弾を発砲。約8ヶ月の重傷を負わせた。支店課長代理から現金283万3000円をリュック作に詰め込めさせ、さらにカウンター上の現金12万円を強奪。さらに現金を要求中、銀行から逃げ出した客から銀行強盗のことを聞いた警邏中の警官が銀行に駆けつけ、威嚇射撃をすると容赦なく猟銃で住吉署の楠本正己警部補(52)を射殺。さらにパトカーで駆けつけてきた二人の警官にも発砲。阿倍野署の前畠和明巡査(当時29歳)も射殺して死亡。銀行内には3人の死体が横たわった。警部補(37)は防弾チョッキで命拾いをし、逃げ出した。その後も続々とパトカーが到着。梅川は、行員に命じてシャッターを下ろさせ机やソファーでバリケードを築く。そこで男子行員11人、女性行員20人、客男女9人全員を人質にして整列させ立て籠もった。支店の建物は武装警官隊や報道陣によって包囲され、その推移はテレビで現場中継された。


梅川昭美は1948年3月1日(昭和24年)に広島県大竹市小方向村で生まれた。父が46歳、母が42歳という高齢で生まれた息子だった。8歳のときに父親が病気で働けなくなったことを機に両親が離婚し以後は極貧生活を送っている。私立広島工業大学付属工業高校へ進学したが、1年で退学。梅川は窃盗など非行の常習犯で、15歳の時(1963年12月)、以前アルバイトした大竹市内の土建業宅に強盗目的で侵入し家人の若妻(23)を殺害し現金や株券、通帳をなどが入った金庫を奪った。その結果、山口の特別少年院へ送致される。逮捕後、梅川は「他の奴らはぬくぬくと暮らし、なんで俺だけが貧乏して苦しまないかん」と供述したという。退院後、両親は梅川と3人で香川県に引っ越すが、折り合いが悪い両親の元から家出する。

【少年法と少年院の見解】
あまりに無惨な強盗殺人だったため、成人であれば死刑又は無期懲役の厳しい刑が当然だったが、当時16歳になるまで2ヶ月ほどを残していた梅川は未成年に当たったため、少年法が適用されて1年半の服役となった。ただ収監した少年院は梅川の性格を「このような資質の少年を社会に放任することはきわめて危険であり、積極的に規制する必要がある。この病的な人格はすでに根深く形成されており、矯正は困難であり、些細なことで反社会的行動や犯罪に結びつきやすく、累犯の可能性が極めて高い」と鑑定していた。

梅川31966年1月に大阪に移り、1967年の19歳のときに父が死亡するが、梅川は通夜・葬儀に顔を出すことは無かったという。1973年7月には上下二連式散弾銃を大阪市で購入し、クレー射撃に精を出す。梅川は大阪のミナミで、十数年間バーテン兼ツケの取り立て人として働いていたが、その店がつぶれてしまい、無職となっていた。その後、バーやクラブにお客用の贈答品を売る仕事を自分で始めたがこれがうまくいかず、強盗に入った時には消費者金融などに500万円以上の借金がある状態だった。そして30歳の誕生日を前にして「俺もおふくろを心配させたらあかん年齢や」と一旗上げると意気込んだ。それが銀行強盗だった。



梅川1事件発生から約20分後の午後2時50分、梅川は意外にも2人の泣きじゃくる男の子を抱きかかえる客の主婦を見つけると、「ぼく立てや」と呼びかけ、3人をすぐに解放した。その直後、梅川は行員をカウンター内に横一列に並ばせ、「責任者は誰や」と尋ねる。「私です」そう言った森岡忠司支店長(47歳)が前に出ると、梅川は「金を出さんかったのは、お前の責任や」と腹に向けて発射、森岡支店長は即死した。

大金庫の前に陣取った梅川は、行員たちを出入口などに並ばせ、人間バリケードを築いて狙撃を警戒。さらに梅川は行員達に「おまえたち「ソドムの市」を知ってるか。これからその境地をたっぷりと味あわせてやる」と言った。

梅川は、自身をカウンターの中央奥に陣取り、周りを人質である行員に囲ませて警察の狙撃を避けるなど冷静沈着であった。また、散弾銃の流れ弾を受けて床に倒れていた男性行員を助けようとした同僚に対して介抱すること一切を認めず、本当に死んだのか別の男性行員に耳をそぎ落とさせることを要求した。また、女性行員に全ての衣服を脱がせて同僚の前で歩かせたり、トイレにも行かせずカウンターの陰で処理させた。

「オレを悪魔と言え、鬼と言え」「女も殺さないとしめしがつかん。オレはかわいそうとか、同情とか、そんな感情は一切持っていない」「オレは小さいころ、叔父さんという人に育てられ、ひどい仕打ちを受けた。十五歳のとき人を殺したが、たった一年くらいで刑務所を出た」と放言し、自慢したという。

しかし、梅川は完全無欠な鬼畜ではなかった。食事などの差し入れと交換に、人質を次々と解放する。また、銀行の電話から友人たちに次々と最後のあいさつをするのである。死を覚悟したのだ。そして、これまで服を脱がさせていた行員たちに、服を着ても良いという許可を与え、さらに別の行員には501万円を用意させ、自分の借金を清算するために行員に払いに行かせた。

梅川4篭城から42時間後の1月28日午前8時41分、次長席に座って差し入れさせた新聞を読み始めたが、猟銃は梅川の手から離れていた。この瞬間、50センチ程開いていたシャッターから匍匐前進しながら待機していた機動隊の狙撃班6人が一斉に梅川を射撃した。発射された6発の弾丸のうち、3発が犯人に命中し、1発は額を貫通し脳漿を吹き飛ばした。その後、後備の機動隊33人がなだれ込み梅川を逮捕したが、梅川は首を撃たれて、ほぼ即死の状態であった。梅川が救急車で搬送される時、警察官らは「死ぬなよ」と何度も梅川に声をかけている。「生きて裁きを受けろ」という気持ちだったという。が、意識不明の梅川は病院に搬送された後、死亡が確認された。


梅川2梅川は強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷、建造物侵入、公務執行妨害、傷害、逮捕監禁、威力業務妨害、窃盗、銃刀法違反、火薬取締法違反の容疑で大阪地方検察庁に送られた。大阪地検は窃盗と傷害を除く9つの罪を認定。1979年5月4日、犯人の梅川昭美に対して大阪地検は被疑者死亡による不起訴処分を決定。同時に梅川を射殺した大阪府警機動隊員7人を職務上の正当行為を理由に不起訴処分とした。


事件後、捜査官が梅川の部屋へ家宅捜査した際、六法全書、経営学、医学などの書籍が600冊出てきたというが、これは粗悪・粗暴な少年時代の反動で、知識欲に駆られたのだ。何とかして一般社会に追いつき、見返してやりたかったのだろうが、その道を大きく誤った。

しかしなぜ、梅川のような人間が出現するのだろうか。これは10代の頃の梅川の悲惨な家庭環境が全てを物語っているのだが、この境遇は実際に味わった人間でないとわからないものなのだろう。ここから社会に異常に間違った反発の仕方をする人間が育つのだ。そして現代の格差社会においても梅川2世が誕生しうるような家庭環境にある人間がいることは否定できない。


大竹市小向方村
大竹市小方向村付近

福山市2歳女児暴行傷害殺害夫婦が逮捕される

福山市で死亡した2歳の女児の体からあざが見つかった事件で、広島県警は10日、傷害致死の疑いで母親の美和容疑者(21)と父親の勝利容疑者(20)が傷害致死の疑いで逮捕された。警察によると、遺体には頭を中心に全身にわたって数十か所のあざがあったとされる。

2人は共謀の上、先月30日の午後5時30分頃から翌日の午後4時50分ころまでの間に、自宅のアパートで娘の鈴美ちゃんの頭をこぶしで殴るなどの暴行を加えて死亡させた疑いがもたれており、取り調べに対し妻の美和容疑者は「殴ったことはありません」と供述し、否認。一方、夫は容疑を認めているという。

鈴美ちゃんは美和容疑者の連れ子で、4月に入籍した勝利容疑者との3人暮らしで、美和容疑者は現在、妊娠しているという。近所づきあいはなく、近所住民によると「泣き声が聞こえたから小さい子がいるんだなと思った。男の子か女の子かも知らない」という。

今回のケースに広島県は、事件前に鈴美ちゃんのあざを確認しており、次に虐待を感じさせるアザなどがあれば、強制的に一時保護する方針だったことを明らかにした。 福山市の東部こども家庭センターが浜先鈴美ちゃんと初めて関わったのは、鈴美ちゃんが死亡するちょうど2年前。 継続的に観察する必要があるとして東部こども家庭センターなどが家庭訪問などを行っていたが、今年7月まで虐待が疑われる状況は確認されていなかった。

その後、先月18日になって東部こども家庭センターが美和容疑者の母親に連絡をとり、両親の鈴美ちゃんへの接し方が少し厳しいとの相談を受け、翌日、親子3人でセンターを訪問。このとき、美和容疑者らは「こどもを保育所に入れたいが空きがない」と相談した。 担当職員は美和容疑者の様子に少し不安を感じたという。 20日には、児童福祉司2人が自宅を訪問したが、目視であざなどがないことを確認している。

しかし、事件のおよそ1週間前の24日、センターに鈴美ちゃんの顔にあるあざについて通報があり、翌日、自宅を訪問した職員が右ほおにあざを確認。その際、勝利容疑者は「ドアを開けたら、子どもがいて、ぶつかった」と話したという。一時保護の申し出は断られた。

この時点で、ほかには目立ったケガは見当たらなかったということだが、次に新たなあざを確認できたら職権で一時保護する方針だった。 今月1日からは育児ストレスを解消するため保育所への入所が決まっており、事件はその直前に起きてしまった。また、9月11日 鈴美ちゃんの腕に、タバコによるものとみられるやけどのあとが、複数あることがわかったという。




福山市女児殺害



福山市女児2



福山市2歳女児殺害




福山市女児1



福山市女児3





福山市2歳女児殺害



福山市東手城町
福山市東手城町付近



【関連記事】
・福山市で2歳女児死亡、母親が日常的に暴行を繰り返していた
・小学生に強制わいせつの男逮捕(2006年5月 手城町)

廿日市市女子高校生殺害事件一斉聞き込み開始

2004年、廿日市市上平良の県立廿日市高校2年北口聡美さん(当時17)が自宅で殺害された事件が10月で6年を迎えるのを前に、廿日市署は8月22日から、現場周辺の6200世帯で一斉聞き込みを行い、従来は対象外だった地区でも実施し、容疑者逮捕に結び付く情報の掘り起こしを図るようだ。

一斉聞き込みは、4月に殺人罪などの時効が撤廃されたのを機に、事件の風化を防ぐ狙いで実施を決めたという。廿日市署によると、容疑者は目撃情報などから当時20歳前後だった男とみられる。同署は、若者から交友関係などを通じた新たな手掛かりを集める構えだ。

従来の一斉聞き込みで対象としてきた同市上平良、陽光台、峰高地区に加え、通勤、通学で現場前を通る住民が多い原、宮園、四季が丘地区でも初めて実施。22日から10月末に6地区の全世帯を巡回。1日当たり約15人の署員を投入。同署は、事件発生直後に約2800世帯、06年10月にも約700世帯を対象に一斉聞き込みを実施。今年7月末までに延べ3万2778人から話を聞いた。寄せられた情報も2940件に上るが、有力な手掛かりは得られていない。丸住裕昭署長は「地に足の着いた捜査で犯人逮捕につなげたい」と話す。

聡美さんの父忠さん(52)は「事件当時に未成年だったため、情報提供をためらった人がいるかもしれない。この機会にささいなことでも知らせてほしい」と呼び掛けている。(中国)


国道433号線はバスも通る主要道で、連結する西広島バイパスにも近いこともあり交通量は比較的多いが、歩行者は車よりも少ないようだ。朝・夕のラッシュ時より交通量が落ちる白昼の間隙を縫った形になったことも、有力な目撃情報が得られない一因になっている。同署は事件数日後、同時刻にドライバーから聞き込みをする検問も実施した。

廿日市市の地域の体質として「他人に無関心・自分勝手」「年功序列」があるといわれる。他人がやることに興味はなく、ゴミのポイ捨てがあっても気にしない。廿日市市の県道30号線ではスピード超過や、追い越し禁止区間での追い越しなどの違反者は多く、警察官のパトロールだけではなく朝、パトカーを近くの駐車場や道路脇に止めたりして監視活動を繰り返している。

地域内の交流も薄い。年配者と若い世代の上下関係が厳しい場面もあり、高齢者と若い世代との対等な会話や交流は少ない。このような地域の課題は不審者を発見するのが難しく、また地域が一体となっての事件を防ぐ抑止にはならない。

こうした地域の課題はなくさなければならないと立ち上がる人も増えている。殺人事件があった後、事件を風化・繰り返させまいと廿日市市上平良などの地域住民による地域パトロールが誕生した。上平良交差点や小学校付近で地域の安全、防犯パトロール活動を見かける。 (2006/10/9 PJオピニオン)


この事件は10月5日午後3時ごろ、母屋にいた北口ミチヨさん(当時72歳)と小学6年の次女が「ギャー」という悲鳴を聞き、2人で離れに向かったところ、聡美さんが玄関で血だらけになって倒れていた。そばに見知らぬ若い男が立っていた。次女は、助けを求めるために自宅を出たが、直後にミチヨさんの悲鳴が聞こえたという。再び離れに戻ると今度はミチヨさんが刺されて倒れており、男の姿はすでになかったという。次女は自宅から数十メートル離れた園芸店に駆け込んで助けを求めた。

逃げた男は、2階で寝ていた県立高校2年の北口聡美さん(17歳)の首や胸など10カ所を刃物で刺し、悲鳴を聞いて駆けつけたミチヨさんの胸なども約10カ所刺して重傷を負わせた。男は20歳ぐらい。目が細く、身長約165センチでがっしりした体格。犯行当時、黒い半袖Tシャツとズボン姿だった。足跡から、靴はダンロップ製の運動靴(約26~27センチ)とみられる。一時意識不明となったミチヨさんは回復後、「犯人は知らない人だった」と証言した。聡美さんに犯人と争った跡はなく、目立った物色の跡もなかった。

聡美さんはこの日、高校の前期期末テスト初日で、試験終了後、昼過ぎに帰宅。間もなくして「午後4時まで寝る」と言って、離れの2階の自室に向かったという。自室に痕跡などはなく、広島県警は聡美さんが1階玄関付近で刺されたとみている。

小学6年生の妹が駆け込んだ近くの園芸店の女性店員の話では、妹は青ざめて言葉も出ず、おびえた様子だったという。

近所に住む20歳代の女性は、「最近、この近所で家の窓ガラスが割られる被害があった」と話していた。

北口さん宅から約30メートル離れた小道(国道433号から脇に入った小道)で犯行時間と同じころ、聡美さんの妹が見た若い男とよく似た人物が目撃されている。目撃された男は、北口さん宅をうかがうようなそぶりをしていたという。上下とも黒っぽい服を着用し、立ち止まって北口さん宅を見ており、十数分後、パトカーが到着したという。


どうみても恨みを晴らすための犯行としか思えない。当時の生徒同士でいざこざがあり、根に持った生徒が知り合いを通じて男に頼んだんだろう。


廿日市市女子高校生殺害

廿日市市上平良
廿日市市上平良付近


廿日市女子高生殺人事件3



廿日市市女子高生殺人

廿日市女子高校生殺害

前原誠司国土交通相が管区海上保安本部の林敏博本部長と中村清次長を更迭

海上保安庁のヘリコプターが瀬戸内海に墜落した事故で、同庁は3日、対応に不適切な点があったなどとして、第6管区海上保安本部の林敏博本部長と中村清次長の更迭を決めた。前原誠司国土交通相が同日の閣議後会見で明らかにし、「5人が死亡した重大性とデモ飛行を公表しなかったことを踏まえた」と述べた。

林本部長と中村次長は10日付で同庁総務部付となる。後任にはそれぞれ同日付で、三木基実第2管区海上保安本部長と、藤井寿夫同庁交通部安全課航行指導室長が就任する。三木氏の後任は、野俣光孝第7管区海上保安本部次長となる。

前原国交相は、墜落したヘリが所属していた6管の広島航空基地では現在、事故の影響でヘリの飛行業務を行えていないと指摘。「今後の安全運航が大事であり、体制の立て直しを海上保安庁長官に指示した」と話した。(時事通信)


【関連記事】
・海上保安庁のヘリ墜落で5人死亡事故、組織内の隠蔽行為か

広島平和記念資料館(原爆資料館)は美術館?

8月12日に、展示を大幅に見直すことになっている広島市の原爆資料館で、有識者らが新しい展示内容を話し合う初めての会議が開かれた。原爆資料館の見学コースは広島の過去の歴史から始まっていて、2016年度までに被害の実態からへと変更されることになっている。

人間に対する被害等、原爆の悲惨さをより強調し、熱線で溶けたビン等の展示物を増やし、被害をよりストレートに伝えることが検討されているという。


原爆資料館は小学生の時に行ったことがあるが、ずいぶん昔のことなので、その時の印象を正確に思い出せないが、原爆被害者の悲惨な写真や遺品が展示されていて驚き、数日間は脳裏から離れなかった記憶がある。

それから年月が経過し、数年前に再度、原爆資料館へ行ってみたのだが、その時の印象は被害者の悲惨な写真等はあまり展示されてなく、ずいぶんきれいになっており美術館のように思えた。時代が変わり、これも来場者に対する人的配慮のためなのかと思った。小さな子供等が来場して悲惨な映像を見たときに万が一、気分が悪くなったり、ひきつけを起こしたり、引きこもりになったり、学校生活が送れなくなったりして、親がクレームや訴訟を起こす事を危惧したのかと。或いはどこかの団体から圧力でもあったのかと。

結局、原爆資料館を出たときには、何も残るものはなかった。


原爆資料館


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