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広島県出身者が犯した戦後最悪の凶悪事件【三菱銀行人質立てこもり強盗殺人事件 1979年】

1979年1月26日午後2時30分頃、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に一人の男が入ってきた。ゴルフバックから猟銃を取り出して構え、猟銃を一発撃ちながら乱入。「みんな伏せろ!」と怒鳴り、同時に天井に向けて2発発射した。行内のカウンターで「金を出せ、出さんと殺すぞ! 10、数えるうちに5000万円出せ!」と要求。これを見た行員の萩尾博さん(当時20歳)は警察への非常電話に手をかけた途端、梅川は躊躇することなく猟銃を撃ち射殺した。
さらにカウンター内でしゃがみ込んでいた行員男性(26)にも散弾を発砲。約8ヶ月の重傷を負わせた。支店課長代理から現金283万3000円をリュック作に詰め込めさせ、さらにカウンター上の現金12万円を強奪。さらに現金を要求中、銀行から逃げ出した客から銀行強盗のことを聞いた警邏中の警官が銀行に駆けつけ、威嚇射撃をすると容赦なく猟銃で住吉署の楠本正己警部補(52)を射殺。さらにパトカーで駆けつけてきた二人の警官にも発砲。阿倍野署の前畠和明巡査(当時29歳)も射殺して死亡。銀行内には3人の死体が横たわった。警部補(37)は防弾チョッキで命拾いをし、逃げ出した。その後も続々とパトカーが到着。梅川は、行員に命じてシャッターを下ろさせ机やソファーでバリケードを築く。そこで男子行員11人、女性行員20人、客男女9人全員を人質にして整列させ立て籠もった。支店の建物は武装警官隊や報道陣によって包囲され、その推移はテレビで現場中継された。


梅川昭美は1948年3月1日(昭和24年)に広島県大竹市小方向村で生まれた。父が46歳、母が42歳という高齢で生まれた息子だった。8歳のときに父親が病気で働けなくなったことを機に両親が離婚し以後は極貧生活を送っている。私立広島工業大学付属工業高校へ進学したが、1年で退学。梅川は窃盗など非行の常習犯で、15歳の時(1963年12月)、以前アルバイトした大竹市内の土建業宅に強盗目的で侵入し家人の若妻(23)を殺害し現金や株券、通帳をなどが入った金庫を奪った。その結果、山口の特別少年院へ送致される。逮捕後、梅川は「他の奴らはぬくぬくと暮らし、なんで俺だけが貧乏して苦しまないかん」と供述したという。退院後、両親は梅川と3人で香川県に引っ越すが、折り合いが悪い両親の元から家出する。

【少年法と少年院の見解】
あまりに無惨な強盗殺人だったため、成人であれば死刑又は無期懲役の厳しい刑が当然だったが、当時16歳になるまで2ヶ月ほどを残していた梅川は未成年に当たったため、少年法が適用されて1年半の服役となった。ただ収監した少年院は梅川の性格を「このような資質の少年を社会に放任することはきわめて危険であり、積極的に規制する必要がある。この病的な人格はすでに根深く形成されており、矯正は困難であり、些細なことで反社会的行動や犯罪に結びつきやすく、累犯の可能性が極めて高い」と鑑定していた。

梅川31966年1月に大阪に移り、1967年の19歳のときに父が死亡するが、梅川は通夜・葬儀に顔を出すことは無かったという。1973年7月には上下二連式散弾銃を大阪市で購入し、クレー射撃に精を出す。梅川は大阪のミナミで、十数年間バーテン兼ツケの取り立て人として働いていたが、その店がつぶれてしまい、無職となっていた。その後、バーやクラブにお客用の贈答品を売る仕事を自分で始めたがこれがうまくいかず、強盗に入った時には消費者金融などに500万円以上の借金がある状態だった。そして30歳の誕生日を前にして「俺もおふくろを心配させたらあかん年齢や」と一旗上げると意気込んだ。それが銀行強盗だった。



梅川1事件発生から約20分後の午後2時50分、梅川は意外にも2人の泣きじゃくる男の子を抱きかかえる客の主婦を見つけると、「ぼく立てや」と呼びかけ、3人をすぐに解放した。その直後、梅川は行員をカウンター内に横一列に並ばせ、「責任者は誰や」と尋ねる。「私です」そう言った森岡忠司支店長(47歳)が前に出ると、梅川は「金を出さんかったのは、お前の責任や」と腹に向けて発射、森岡支店長は即死した。

大金庫の前に陣取った梅川は、行員たちを出入口などに並ばせ、人間バリケードを築いて狙撃を警戒。さらに梅川は行員達に「おまえたち「ソドムの市」を知ってるか。これからその境地をたっぷりと味あわせてやる」と言った。

梅川は、自身をカウンターの中央奥に陣取り、周りを人質である行員に囲ませて警察の狙撃を避けるなど冷静沈着であった。また、散弾銃の流れ弾を受けて床に倒れていた男性行員を助けようとした同僚に対して介抱すること一切を認めず、本当に死んだのか別の男性行員に耳をそぎ落とさせることを要求した。また、女性行員に全ての衣服を脱がせて同僚の前で歩かせたり、トイレにも行かせずカウンターの陰で処理させた。

「オレを悪魔と言え、鬼と言え」「女も殺さないとしめしがつかん。オレはかわいそうとか、同情とか、そんな感情は一切持っていない」「オレは小さいころ、叔父さんという人に育てられ、ひどい仕打ちを受けた。十五歳のとき人を殺したが、たった一年くらいで刑務所を出た」と放言し、自慢したという。

しかし、梅川は完全無欠な鬼畜ではなかった。食事などの差し入れと交換に、人質を次々と解放する。また、銀行の電話から友人たちに次々と最後のあいさつをするのである。死を覚悟したのだ。そして、これまで服を脱がさせていた行員たちに、服を着ても良いという許可を与え、さらに別の行員には501万円を用意させ、自分の借金を清算するために行員に払いに行かせた。

梅川4篭城から42時間後の1月28日午前8時41分、次長席に座って差し入れさせた新聞を読み始めたが、猟銃は梅川の手から離れていた。この瞬間、50センチ程開いていたシャッターから匍匐前進しながら待機していた機動隊の狙撃班6人が一斉に梅川を射撃した。発射された6発の弾丸のうち、3発が犯人に命中し、1発は額を貫通し脳漿を吹き飛ばした。その後、後備の機動隊33人がなだれ込み梅川を逮捕したが、梅川は首を撃たれて、ほぼ即死の状態であった。梅川が救急車で搬送される時、警察官らは「死ぬなよ」と何度も梅川に声をかけている。「生きて裁きを受けろ」という気持ちだったという。が、意識不明の梅川は病院に搬送された後、死亡が確認された。


梅川2梅川は強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷、建造物侵入、公務執行妨害、傷害、逮捕監禁、威力業務妨害、窃盗、銃刀法違反、火薬取締法違反の容疑で大阪地方検察庁に送られた。大阪地検は窃盗と傷害を除く9つの罪を認定。1979年5月4日、犯人の梅川昭美に対して大阪地検は被疑者死亡による不起訴処分を決定。同時に梅川を射殺した大阪府警機動隊員7人を職務上の正当行為を理由に不起訴処分とした。


事件後、捜査官が梅川の部屋へ家宅捜査した際、六法全書、経営学、医学などの書籍が600冊出てきたというが、これは粗悪・粗暴な少年時代の反動で、知識欲に駆られたのだ。何とかして一般社会に追いつき、見返してやりたかったのだろうが、その道を大きく誤った。

しかしなぜ、梅川のような人間が出現するのだろうか。これは10代の頃の梅川の悲惨な家庭環境が全てを物語っているのだが、この境遇は実際に味わった人間でないとわからないものなのだろう。ここから社会に異常に間違った反発の仕方をする人間が育つのだ。そして現代の格差社会においても梅川2世が誕生しうるような家庭環境にある人間がいることは否定できない。


大竹市小向方村
大竹市小方向村付近